生きがいという言葉がある。この言葉は、「生きる意味」ともいえるかもしれない。生きていることに意味を見出したいというのは、人間独特のものだろう。考えることができるというのは、確かに良いことだ。ただ、何にでも価値を見出すことが良いこととされている今の風潮は、大変だと思う。

 

 

昔、「生きがいの創造」という本がベストセラーになった。これも生きがいを感じれない人が増えた裏返しなのか、生きがいを持たないといけないという強迫なのかはわからないが、そういう傾向に世間がなっているということなんだろう。そもそも生きる価値なんてものは、本当にあるのだろうか?僕自身も、別に価値なんてなくても良いんじゃないかとも思うし、生きている以上は「青史に名を残す」ということに価値を感じるというのは、昔から考えていたことだ。ちなみに青史は、正史の間違いではなく、紙のない竹簡を用いていた時代の名残の言葉だ。そんな昔から、歴史に名前を残すこと人間は求めていたんだなあと思う。

 

 

その人の人生に価値なんかなくても家族はいるし、友達もいるし、何とかなるわけだ。家族や友達がいれば、それだけで十分価値がるともいえるかもしれない。すると、「価値とはなんだろうか」ということがこの生きがいについて考えるうえでの本質的な問いになるのかもしれない。価値というのは、両方とも「あたい」で、つまりはお金に換算されるものということなんだろうか。人生をお金に換算するというのは、もうそれだけでダメな気もするが、とはいえお金は大事なものだし、だれもがわかりやすい単位でもあるので、結局はそういうことなんだろう。

 

 

生きがいというのは、その人が生きていくら作ったかということなんだろうか?なかなか味気ないが、人生の価値といってもしょせんその程度のことなんだと思ったら、まあ気楽に生きれるかもしれない。