聖金曜日は、主の受難を記念するため感謝の祭儀を行いません。第一朗読、第二朗読に続いて、ヨハネ福音書による主イエス・キリストの受難が朗読劇の形で朗読されました。この説教の後、盛式共同祈願、十字架の礼拝、交わりの儀があり、会衆のための祈願の後、沈黙のうちに解散します。
第一朗読は、イザヤの預言の「主のしもべの歌」でした。
「彼が刺し貫かれたのはわたしたちの背きのためであり、彼が打ち砕かれたのは、わたしたちの咎のためであった」(53:5)。神は、私たちが受けねばならない刑罰を主のしもべに負わせます。「わたしたちの罪をすべて、主は彼に負わせられた」と言われるとおりです。
この「主のしもべ」はイザヤが生きた時代の迫害される預言者、あるいはイスラエル民族のことだったかも知れませんが、イエスの弟子たちは、この歌こそイエスの受難と死を預言したものと受けとめてきました。
「苦難の主のしもべの歌」は、ウクライナ、ガザ、イランなどで攻撃にさらされ、苦しむ大勢の人々の歌でもあるとわたしは思います。
第二朗読はヘブライ人への手紙でした。
「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげ、その畏れ敬う態度のゆえに聞き入れられました。」と著者は語ります。
今晩も、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いをささげる大勢の人たちがいます。神が彼らの祈りを聞きいれて下さるよう祈りましょう。
福音朗読は、「ヨハネによる主イエス・キリストの受難」でした。
受難の主日同様、朗読劇の形で語られます。イエスを前にした群衆が「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」と叫ぶとき、叫んでいるのはわたし自身でもあると感じます。
イエスは十字架上で母マリアを愛する弟子の母としました。聖母マリアはこの時から、イエスの弟子の母、教会の母としてわたしたちを保護し、取りなす方となりました。
ラテン語の《ホモ・パティエンス》は苦しむひとという意味です。homoは人間、patiorという動詞は受ける、被る、苦しむ、容れるといった意味を持っています。英語のパッション(passion)はこのpatiorという動詞に由来します。
アウシュヴィッツから生還したⅤ・フランクルは、「ホモ・パティエンス」と題した文章(1951年)のなかで、「理性のひと」にたいし「苦しむひと」を対置しています。理性的な判断のひとである前に、苦悩を引き受けるひとであれというのです。
哲学者の鷲田清一さんはⅤ・フランクルの「ホモ・パティエンス」を解説しています。
人間という存在はそのもっとも深いところでは、「受難」(passion)であり、つまりは「苦しむひと」(homo patiens)であるというのだ。生きもの(Lebewesen)とは苦しむもの(Leidewesen)ではなかったかというフランクルの語呂合わせをまねて言えば、生きる(live)ことそのことがしばしば災い(evil)でありうるように、だ。
今年の聖金曜日はフランクルの言葉に強く揺り動かされます。戦争や紛争のために虐殺される人びとと共にイエス様はいてくださると信じています。
今晩、生きることが災いだと感じざるを得ない人びとと心を合わせて祈りましょう。
主よ、どうかわたしたちをあわれんでください。