マタイによる福音

 〔そのとき、〕12・14ファリサイ派の人々は出て行き、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。15イエスはそれを知って、そこを立ち去られた。大勢の群衆が従った。イエスは皆の病気をいやして、16御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。18「見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。19彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。20正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない。21異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 イエスが「人の子は安息日の主なのである。」と言ったことを聞いたファリサイ派の人々は「どのようにしてイエスを殺そうかと相談」します。

 麦の穂を摘んだ弟子たちを「安息日破りだ」とイエスを責め立てたファリサイ派の人々が、安息日に「殺人の計画」という最大の罪を犯します。しかも、彼らは罪を犯しているという自覚がありません。

 ファリサイ派の人々が律法の文字だけにこだわり、その本質である「憐れみ」や「命への愛」をないがしろにしていることがあわらになります。

マタイによる福音

 〔そのころ、〕12・1ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。2ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。3そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。4神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。5安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。6言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。7もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。8人の子は安息日の主なのである。」

 

 弟子たちが安息日に麦の穂を摘んで食べ始めました。実際に麦の穂を摘んで食べることができるか調べてみました。

 まず、黄色く色づき、実がふくらんだ麦の穂を手で折り取ります。次に、両手のひらで穂を挟み、ギューッとこすり合わせるようにしてもみほぐします。これで殻から実が外れます。手のひらに残った実と殻の混ざったものに、フッと息を吹きかけます。軽い殻だけが風で飛び、手のひらに硬い「麦の粒」だけが残ります。残った粒を口に放り込んで、奥歯でしっかり噛んで食べます。このすべての動作が労働と見なされます。

 ファリサイ派は弟子たちが他人の畑に入って麦の穂を摘んで食べることをイエスに問い詰めているのではなく、弟子たちが麦の穂を摘んだのは労働を禁じる安息日だったからです。

 律法の規定を遵守しているか、鵜の目鷹の目で弟子たちの行動を見張っているファリサイ派の人々に対してイエスが答えた内容は彼らの怒りを助長するだけでした。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは言われた。〕11・28疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。29わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。30わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」

 

 「疲れた者、重荷を負う者」とは、当時のユダヤ社会の宗教指導者(ファリサイ派や律法学者)によって、がんじがらめの律法の解釈を押し付けられ、疲れ果てていた民衆です。彼らは、神に近づきたいと願いながらも、人間が作った宗教的ルールや「こうでなければならない」という義務感の重圧に押し潰されていました。

 イエスは「すべての荷物を取り払って、何もしなくていい自由をあげる」と言っているのではありません。そうではなく、「あなたが一人で背負って苦しんでいるその重荷を、これからは私が一緒に隣に並んで、半分、あるいはそれ以上を担って一緒に引いてあげよう」と言います。

 

 この部分は一宮教会の葬儀ミサの福音の朗読箇所です。