マタイによる福音

 20・20そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」22イエスはお答えになった。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。このわたしが飲もうとしている杯を飲むことができるか。」二人が、「できます」と言うと、23イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしの杯を飲むことになる。しかし、わたしの右と左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、わたしの父によって定められた人々に許されるのだ。」24ほかの十人の者はこれを聞いて、この二人の兄弟のことで腹を立てた。25そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。26しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、27いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。28人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

 ステージママという言葉をご存じでしょうか。ステージママは、子役やタレント、演奏家などとして活動する子供のマネージャー役をする母親のことです。

 イエスの弟子となったヨハネとヤコブの母が何故イエスの一行に同行しているのかは分かりませんが、彼女は二人の息子と共にイエスの前で法外な願いを言い立てます。

 他の弟子たちがこのことを聞いて腹を立てたのは、彼らも同じ欲望を持っていたからでしょう。

 イエスは、彼らに「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。」と諭します。

 

 ローマ教皇の公式名称の一つは”servus servorum Dei”、「神の僕たちの僕」というものです。教皇だけでなく、教会の司牧に当たる司祭、助祭、また信徒もそれぞれ、神の僕たちの僕であることを忘れてはならないと思います。

 

 使徒ヤコブについては女子パウロ会ホームページをごらんください。 https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=072501

 

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕13・18「だから、種を蒔く人のたとえを聞きなさい。19だれでも御国の言葉を聞いて悟らなければ、悪い者が来て、心の中に蒔かれたものを奪い取る。道端に蒔かれたものとは、こういう人である。20石だらけの所に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて、すぐ喜んで受け入れるが、21自分には根がないので、しばらくは続いても、御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人である。22茨の中に蒔かれたものとは、御言葉を聞くが、世の思い煩いや富の誘惑が御言葉を覆いふさいで、実らない人である。23良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結ぶのである。」

 

 「種蒔きのたとえ」の中心は、惜しみなく種をまく人にありましたが、弟子たちの求めに応じてイエスはまかれた場所について話を進めます。

 この話は初代教会の様子を反映しているのではないでしょうか。

 AIでは次のように説明されています。

 イエスが語った壮大な「神の国の収穫のたとえ」は、初代教会において、日々の生活の誘惑や迫害に耐え忍び、信仰を守り続けるための「実践的な信仰指導のメッセージ」へと再解釈されました。したがって、聖書に記されているその説明は、当時の初代教会の内実や信徒たちの直面していたリアルな葛藤を、極めて鮮明に反映していると言えます。

 自分はどんな土地なのかと不安になりますが、たとえ不毛の土地であっても良い土地に変えてくださいとイエスに祈りたいと思います。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕13・10弟子たちはイエスに近寄って、「なぜ、あの人たちにはたとえを用いてお話しになるのですか」と言った。11イエスはお答えになった。「あなたがたには天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たちには許されていないからである。12持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。13だから、彼らにはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである。14イザヤの預言は、彼らによって実現した。『あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない。15この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった。こうして、彼らは目で見ることなく、耳で聞くことなく、心で理解せず、悔い改めない。わたしは彼らをいやさない。』16しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。17はっきり言っておく。多くの預言者や正しい人たちは、あなたがたが見ているものを見たかったが、見ることができず、あなたがたが聞いているものを聞きたかったが、聞けなかったのである。」

 

 イエスは弟子たちに「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ。」と言いました。

 しかし、弟子たちもまた、イエスの言葉と行いを「見ても見ず、聞いても聞かず、理解できな」かったのだとわたしは思います。

 あえて福音記者がイエスの弟子に対する言葉を記したのは、弟子たちはイエスの近くで、イエスから直接教えを受けていたにもかかわらず、イエスの言葉を理解できず、最終的にはイエスを裏切ってしまったことを残すためではなかったかと思います。