ヨハネによる福音

〔そのとき、イエスはユダヤ人たちにお答えになった。〕5・17「わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。」18このために、ユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとねらうようになった。イエスが安息日を破るだけでなく、神を御自分の父と呼んで、御自身を神と等しい者とされたからである。

 19そこで、イエスは彼らに言われた。「はっきり言っておく。子は、父のなさることを見なければ、自分からは何事もできない。父がなさることはなんでも、子もそのとおりにする。20父は子を愛して、御自分のなさることをすべて子に示されるからである。また、これらのことよりも大きな業を子にお示しになって、あなたたちが驚くことになる。21すなわち、父が死者を復活させて命をお与えになるように、子も、与えたいと思う者に命を与える。22また、父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる。23すべての人が、父を敬うように、子をも敬うようになるためである。子を敬わない者は、子をお遣わしになった父をも敬わない。24はっきり言っておく。わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。25はっきり言っておく。死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。今やその時である。その声を聞いた者は生きる。26父は、御自身の内に命を持っておられるように、子にも自分の内に命を持つようにしてくださったからである。27また、裁きを行う権能を子にお与えになった。子は人の子だからである。28驚いてはならない。時が来ると、墓の中にいる者は皆、人の子の声を聞き、29善を行った者は復活して命を受けるために、悪を行った者は復活して裁きを受けるために出て来るのだ。

 30わたしは自分では何もできない。ただ、父から聞くままに裁く。わたしの裁きは正しい。わたしは自分の意志ではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行おうとするからである。」

 

 安息日に仕事をしてはならないという掟は、どんな場合でも遵守しなければならないものではなかったようです。

安息日論争でイエスは、「あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。」と言っています。

 イエスの言葉によれば、安息日でも家族や家畜に命の危険がある場合には、働いていいとイエスの反対者たちは思っていたことになります。

 新共同訳で19節、24節、25節の冒頭で「はっきり」と訳されているのは、「アーメン、アーメン」という言葉です。

イエスがご自分のメッセージを「アーメン、アーメン…」で始めるのはヨハネ福音書だけです。この表現は、口語訳聖書では「まことに、まことに」となっていましたが、新共同訳で「はっきり」となったのは残念です。

 イエスが「アーメン、アーメン」と言い出すとき、イエスが父である神に身を委ねているように、聞き手にイエスを全面的に受け入れるよう求めているといった学者がいます。

 

「 わたしの言葉を聞いて、わたしをお遣わしになった方を信じる者は、永遠の命を得、また、裁かれることなく、死から命へと移っている。」というイエスの言葉を信じ、イエスにすべてを委ねることができますように。

ヨハネによる福音
 〔ユダヤ人の祭りの日に、〕5・1イエスはエルサレムに上られた。2エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。3この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。5さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。6イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。7病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」8イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」9すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。
 その日は安息日であった。10そこで、ユダヤ人たちは病気をいやしていただいた人に言った。「今日は安息日だ。だから床を担ぐことは、律法で許されていない。」11しかし、その人は、「わたしをいやしてくださった方が、『床を担いで歩きなさい』と言われたのです」と答えた。12彼らは、「お前に『床を担いで歩きなさい』と言ったのはだれだ」と尋ねた。13しかし、病気をいやしていただいた人は、それがだれであるか知らなかった。イエスは、群衆がそこにいる間に、立ち去られたからである。14その後、イエスは、神殿の境内でこの人に出会って言われた。「あなたは良くなったのだ。もう、罪を犯してはいけない。さもないと、もっと悪いことが起こるかもしれない。」15この人は立ち去って、自分をいやしたのはイエスだと、ユダヤ人たちに知らせた。16そのために、ユダヤ人たちはイエスを迫害し始めた。イエスが、安息日にこのようなことをしておられたからである。

 ベトザタの池のそばに横たわっていた三十八年も病気で苦しんでいる人に、イエスは何故「良くなりたいか」と訊いたのでしょうか。
 新共同訳ではこの人はイエスに、「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」と答えますが、新約聖書翻訳委員会の小林訳では、「旦那、俺には水がかき乱される時、池に入れてくれる人がいないんでね。俺が行こうとすると、その間にほかのやつが俺よりも先に降りていってしまう」となっています。
 この足の不自由な人は、ベトザタの池に来たのか分かりません。池に来た当初は良くなりたいと思っていたかも知れませんが、いつかそこに来た目的がどうでもよくなり、人々の施しを頼りに生きていたのではないかと思います。
 イエスはこの人に「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」と言います。それは単に立ち上がるという意味だけではなく目覚めなさい、奮い立ちなさいという意味もあります。
 この時点で彼はイエスがだれであるか知りませんでした。その後神殿でイエスに出会った時に彼は自分をいやしたのはイエスだと分かりました。
 この物語は洗礼志願者の物語でもあると思います。
 

ヨハネによる福音
〔そのとき、イエスはサマリア〕4・43を出発して、ガリラヤへ行かれた。44イエスは自ら、「預言者は自分の故郷では敬われないものだ」とはっきり言われたことがある。45ガリラヤにお着きになると、ガリラヤの人たちはイエスを歓迎した。彼らも祭りに行ったので、そのときエルサレムでイエスがなさったことをすべて、見ていたからである。
 46イエスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。47この人は、イエスがユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。48イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と言われた。49役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。50イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。51ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。52そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。53それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。54これは、イエスがユダヤからガリラヤに来てなされた、二回目のしるしである。

 カナでの一回目のしるしは、イエスが水をぶどう酒に変えたことです。二回目のしるしは王の役人の病気の息子を癒やすことです。
 役人が「カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼」むと、イエスは「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ、決して信じない」と役人の頼みを断るような言い方をします。
それにもめげず、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と嘆願すると、イエスは役人と共に家に行かず、「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」と言います。役人はイエスの言葉を信じ、家に戻る途中、僕たちが子供の容態が落ち着き、いやされたこと告げました。
「しるしや不思議な業を見」なくても、イエスの言葉を信じることが救いにつながると教えられます。