ヨハネによる福音

 〔そのとき、イエスはファリサイ派の人々に言われた。〕8・21「わたしは去って行く。あなたたちはわたしを捜すだろう。だが、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない。」22ユダヤ人たちが、「『わたしの行く所に、あなたたちは来ることができない』と言っているが、自殺でもするつもりなのだろうか」と話していると、23イエスは彼らに言われた。「あなたたちは下のものに属しているが、わたしは上のものに属している。あなたたちはこの世に属しているが、わたしはこの世に属していない。24だから、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになると、わたしは言ったのである。『わたしはある』ということを信じないならば、あなたたちは自分の罪のうちに死ぬことになる。」25彼らが、「あなたは、いったい、どなたですか」と言うと、イエスは言われた。「それは初めから話しているではないか。26あなたたちについては、言うべきこと、裁くべきことがたくさんある。しかし、わたしをお遣わしになった方は真実であり、わたしはその方から聞いたことを、世に向かって話している。」27彼らは、イエスが御父について話しておられることを悟らなかった。28そこで、イエスは言われた。「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。29わたしをお遣わしになった方は、わたしと共にいてくださる。わたしをひとりにしてはおかれない。わたしは、いつもこの方の御心に適うことを行うからである。」30これらのことを語られたとき、多くの人々がイエスを信じた。

 

 イエスはファリサイ派の人々に対して、「あなたたちは、人の子を上げたときに初めて、『わたしはある』ということ、また、わたしが、自分勝手には何もせず、ただ、父に教えられたとおりに話していることが分かるだろう。」と謎めいた言葉を語ります。

 「人の子を上げる」には二重の意味が含まれています。

 この言葉はイエスが十字架にかけられ、木につり上げられることを指します。それはイエスの宣教活動の敗北と屈辱に見えますが、ヨハネ福音書は「救いの完成」と見ています。イエスは十字架を経て、死に打ち勝ち、父なる神の右の座へと「高く挙げられること」を意味します。ファリサイ派の人びとがイエスを十字架にかけたとき、イエスの真の姿が明らかになります。

「わたしはある」という言葉は、神がモーセに告げた言葉(出エジプト3:14)です。律法学者やファリサイ派の人びとは、彼らの前で教えを宣べ、しるしを行うイエスを受けいれず、殺そうとしていました。しかし十字架と復活の後、復活のイエスと遭遇した弟子たちは「この方こそが神から来た救い主であった」と理解するようになりました。

 イエスは、これらの言葉により、ご自分が「神と等しい権威を持ちながら、父なる神に徹底的に従い、人類のために十字架にかかる存在」であることを伝えてました。

 

祈り

主なるイエス・キリスト、

これがあなたの父のみこころなのです。

あなたを見て信じる者がみな永遠の命を得、

あなたがその人を終わりの日に復活させるのです。

──ヨハネ6:40による

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕8・1イエスはオリーブ山へ行かれた。2朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。3そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、4イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。5こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」6イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」8そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。9これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。10イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」11女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」

 

 この物語を読むたびに、思い出すことがあります。その方は薬物依存症の方で自分の妻が不倫をしているという妄想に取り憑かれていました。

 この物語の最後にイエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」と言います。

 すると、この方は、「先生、この女がもう一度同じ罪を犯したらイエスは何というのでしょうか」と私に訊いたのです。

 しばらく考えてから、「イエスは、同じことを言うと思います。」と答えました。

 赦しの秘跡で司祭から赦しのことばをいただく前に、痛悔の祈りをしますが、昔の痛悔の祈りは、「ああ天主、……聖寵の助けをもって、今より心を改め、再び罪を犯して、御心に背くことあるまじと決心し奉る。」という祈りでした。

 毎月一度赦しの秘跡を受けなければなりませんでしたが、「再び罪を犯して、御心に背くことあるまじ」という言葉につまずきました。

 心の中で、また犯すに決まっていると思っているにもかかわらず、そんな祈りをしていいものかと思っていました。

 しかし、際限なく赦す神の慈しみに信頼して、神の赦しを乞い願うしかないなあと思い始めました。

 

ナウエンと共に祈ります。

 

主よ、あなたは世を裁くためではなく、

世を救うためにおいでになりました。

あなたを拒み、あなたの言葉を受け入れない者に対しては、

裁くものがあります。

あなたの語った言葉が、

終わりの日にその者を裁くでしょう。

──ヨハネ15:47-48による

ヨハネによる福音書11:1-45

 1 ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。2 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。3 姉妹たちはイエスのもとに人をやって、「主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです」と言わせた。4 イエスは、それを聞いて言われた。「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである。」5 イエスは、マルタとその姉妹とラザロを愛しておられた。6 ラザロが病気だと聞いてからも、なお二日間同じ所に滞在された。7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」9 イエスはお答えになった。「昼間は十二時間あるではないか。昼のうちに歩けば、つまずくことはない。この世の光を見ているからだ。10 しかし、夜歩けば、つまずく。その人の内に光がないからである。」11 こうお話しになり、また、その後で言われた。「わたしたちの友ラザロが眠っている。しかし、わたしは彼を起こしに行く。」12 弟子たちは、「主よ、眠っているのであれば、助かるでしょう」と言った。13 イエスはラザロの死について話されたのだが、弟子たちは、ただ眠りについて話されたものと思ったのである。14 そこでイエスは、はっきりと言われた。「ラザロは死んだのだ。15 わたしがその場に居合わせなかったのは、あなたがたにとってよかった。あなたがたが信じるようになるためである。さあ、彼のところへ行こう。」16 すると、ディディモと呼ばれるトマスが、仲間の弟子たちに、「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と言った。

 17 さて、イエスが行って御覧になると、ラザロは墓に葬られて既に四日もたっていた。18 ベタニアはエルサレムに近く、十五スタディオンほどのところにあった。19 マルタとマリアのところには、多くのユダヤ人が、兄弟ラザロのことで慰めに来ていた。20 マルタは、イエスが来られたと聞いて、迎えに行ったが、マリアは家の中に座っていた。21 マルタはイエスに言った。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに。22 しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています。」23 イエスが、「あなたの兄弟は復活する」と言われると、24 マルタは、「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」と言った。25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」

 28 マルタは、こう言ってから、家に帰って姉妹のマリアを呼び、「先生がいらして、あなたをお呼びです」と耳打ちした。29 マリアはこれを聞くと、すぐに立ち上がり、イエスのもとに行った。30 イエスはまだ村には入らず、マルタが出迎えた場所におられた。31 家の中でマリアと一緒にいて、慰めていたユダヤ人たちは、彼女が急に立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、後を追った。32 マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し、「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と言った。33 イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、34 言われた。「どこに葬ったのか。」彼らは、「主よ、来て、御覧ください」と言った。35 イエスは涙を流された。36 ユダヤ人たちは、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」と言った。37 しかし、中には、「盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか」と言う者もいた。

 38 イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた。39 イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。40 イエスは、「もし信じるなら、神の栄光が見られると、言っておいたではないか」と言われた。41 人々が石を取りのけると、イエスは天を仰いで言われた。「父よ、わたしの願いを聞き入れてくださって感謝します。42 わたしの願いをいつも聞いてくださることを、わたしは知っています。しかし、わたしがこう言うのは、周りにいる群衆のためです。あなたがわたしをお遣わしになったことを、彼らに信じさせるためです。」43 こう言ってから、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ばれた。44 すると、死んでいた人が、手と足を布で巻かれたまま出て来た。顔は覆いで包まれていた。イエスは人々に、「ほどいてやって、行かせなさい」と言われた。

 45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。

 

 A年四旬節第3主日はヨハネ4章のイエスとサマリアの女性との出会い、第4主日はヨハネ9章のイエスと生まれつきの盲人との出会い、そして今週の四旬節第5主日の福音はヨハネ11章のイエスによるラザロの蘇生の物語です。

 

 四旬節の典礼は洗礼志願者の清めと照らしのためですが、同時に既に洗礼を受けた人たちの悔い改めと回心のためでもあります。

 

 ラザロが重篤な病気であることを知ったイエスは「この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである」(11:4)といいます。

 イエスの言葉は、生まれつきの盲人を前にした「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(9:3)という言葉を思い起こさせます。

 

 さて、イエスはどのようにラザロの死に直面したのでしょうか。

ラザロが病気であることを知ったイエスは「もう一度、ユダヤに行こう」と弟子に告げます。それに対して弟子たちは「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか」(11:8)とイエスを引き留めようとします。それは神殿でユダヤ人たちがイエスを石で打ち殺そうし、イエスは彼らの手を逃れてそこを去って行かれたからです(10:31-39)。死んだラザロにあうためにイエスは死地に赴きます。トマスの「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」(11:16)という仲間に対する言葉でその緊迫感が分かります。

 イエスがマルタとマリアの家を訪ねたのはラザロが墓に葬られて四日も後のことでした。イエスを見たマルタとマリアは全く同じことを言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(11:21, 11:32)。イエスはマルタに対しては、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(11:25-26)。イエスのこの言葉にマルタは「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(11:27)と信仰宣言をします。

 イエスは愛する者の死に直面して泣いている人々を見て、「心に憤りを覚え、興奮し」、「涙を流され」ました。

 

 愛する者の死に直面して、イエスは「心に憤りを覚え、興奮し」ました。

 イエスが悲しみを越えて憤られたのは何故でしょうか。愛する人々が泣き崩れる姿を見て、その悲しみに深く共鳴した結果、内側から突き上げるような激しい感情を抑えきれなくなったという解釈があります。イエスの憤りは、単なる同情ではなく、苦しむ人間と一体化する神の愛の激しさを示しているのです。

 イエスは、ラザロの墓の石を取りのけさせ、「ラザロ、出て来なさい」と大声で叫ぶと、死んでいたラザロが蘇生しました。この出来事を「目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じ」ましたが、その知らせを聞いた、「祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集し」、「この日から、彼らはイエスを殺そうとたくら」みました。

 

 ラザロにいのちを与えるイエスのわざはイエスご自身の死を決定的なものにしました。

 ヘンリ・ナウエンはこの物語に重層的な構造を見ます。

 

 この物語には、第一に「イエスに対する死の脅しと、ラザロを生き返らせる呼びかけの対比が見られます」。「ラザロがいのちに呼び戻されたとき、指導者たちはイエスを殺そうと決意しました。これらのすべては、イエスが自らの死と復活を前に、友人や弟子たちを備えさせた手段と見ることもできます。ラザロを生き返らせることによって、やがてイエスは復活し、まもなく起こるイエスの死が、最後でないことを示したのです」。

 「第二に、そこには愛の物語があります。ラザロはイエスの最も親しい友人の一人でした。<中略>イエスが人を生へと引き戻したときには、そこに計り知れぬ愛と憐れみを見て取ることができます。この愛と憐れみこそ、新しい命の源です」。

 「第三は、イエスがラザロの病気にいて耳にしたときに発した言葉があります。『この病気は死で終わるものではない。神の栄光のためである。神の子がそれによって栄光を受けるのである(11:4)。他の多くの場合と同じように、イエスは悲劇的な出来事を神の栄光の現れる機会と見ます」。(マイケル・オラーリン編『ナウエンと読む福音書』あめんどう2008年)

 

 イエスが共にいることによって、死は最後の答えではなく、復活のいのちにつながるのです。

 

 洗礼志願者と共に「主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」とわたしたちも信仰告白しましょう。