マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕24・42「目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。43このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。44だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」

 45「主人がその家の使用人たちの上に立てて、時間どおり彼らに食事を与えさせることにした忠実で賢い僕は、いったいだれであろうか。46主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。47はっきり言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。48しかし、それが悪い僕で、主人は遅いと思い、49仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりしているとする。50もしそうなら、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、51彼を厳しく罰し、偽善者たちと同じ目に遭わせる。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 イエスの弟子たちに対する訓話です。この訓話は初代教会の状況を反映しているのではないかと思います。

 初代教会の司牧者の中には、自分の務めを怠り、怠惰で放縦な生活をする人もいたのではないかと思います。

 イエスは、「終わりは突然やってくるのだから、先行きを油断して不誠実な生き方に走るのではなく、今与えられている役割や責任を誠実に全うし続けなさい」と弟子たちに警告しています。

 世の終わりがいる来るのか予測できませんが、わたしの終わりは近づいています。自分に与えられた務めを果たし続けることができるよう願うばかりです。

 

 聖モニカについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=082701

 

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは言われた。〕23・27「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。白く塗った墓に似ているからだ。外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている。28このようにあなたたちも、外側は人に正しいように見えながら、内側は偽善と不法で満ちている。29律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。30そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。31こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫であることを、自ら証明している。32先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」

 

 律法学者とファリサイ派の人々にイエスは「先祖が始めた悪事の仕上げをしたらどうだ。」と言います。聖書協会共同訳は「あなたがたも、先祖たちが犯した罪の升目を満たすがよい」となっています。

 果たしてそれはどのような意味なのでしょうか。その背景と意味には、以下のような深い皮肉と警告が込められています。

1. 「自分たちは先祖とは違う」という偽善への指摘この発言の直前で、宗教指導者たちは「もし自分たちが先祖の時代に生きていても、神の預言者を殺すような残酷な真似はしなかった(預言者の血を流す側にはつかなかった)」と主張していました。しかし、彼らは口ではそう言いながらも、目の前に神から遣わされた本物のメシア(イエス)をまさに排斥し、殺そうとしていました。イエスは、その矛盾(自分たちは先祖よりましだと思い込んでいる傲慢さと偽善)を見抜いていました。

2. 「悪の器を満たす」という皮肉と預言「先祖が始めた悪事の仕上げをする(口語訳では「先祖たちがした悪の枡目を満たすがよい」)」とは、「自分たちは先祖のような悪人ではないと言いながら、お前たちが今まさにやっていること(イエスや神の使者たちを退け、迫害すること)は、先祖が代々積み上げてきた悪事の総仕上げ、つまり完成なのだ」という痛烈な皮肉です。歴史上、イスラエルの人々は神が遣わした預言者たちをたびたび迫害し、殺害してきました。そして今の世代の指導者たちは、その歴史の「最終段階」として、神の子であるイエスを十字架にかけようとしている――その罪の決定的な大きさを指摘しているのです。

3. 逃れられない責任と警告この言葉のすぐ後で、イエスは「蛇よ、蝮の子らよ、どうしてあなたたちは地獄の罰を免れることができようか」と続けています。自分たちの心の中にある悪意や偽善に向き合わず、「自分たちは先祖とは違う」と見せかけの義(預言者の墓を飾るなど)に逃げ込んでいる姿勢を厳しく断罪し、その偽りがもたらす破滅的な結末を警告しています。

 律法学者やファリサイ派の人々に対するイエスの激しい非難は、彼らの回心を望んでのことだと思います。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは言われた。〕23・23「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。

 

 「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」というイエス・キリストの言葉は律法学者やファリサイ派の人々に向けられた非常に痛烈な批判です。

 古代のパレスチナの文化や、当時の言葉のニュアンスを踏まえると、この表現には以下のような意味と皮肉が込められています。

1.       「ぶよ」と「らくだ」

 ユダヤの律法では「虫(不浄な生き物)を食べてはならない」と定められていました。そのため、飲み物に小さな虫や「ぶよ」が入っていないか布で念入りに漉して、小さなゴミや虫さえも口に入らないように細心の注意を払っていました。「らくだ」は当時のユダヤにおいて最も巨大で、かつ(ぶよと同様に)律法では不浄とされる動物でした。

 つまり、「目に見えるような極めて微細な虫(ぶよ)が入らないように神経をとがらせている一方で、目の前にいる巨大な不浄な生き物(らくだ)すら丸呑みしている」という、完全にちぐはぐで滑稽な様子を描いています。

 

2.       「形式主義」と「本質の欠落」への批判

 イエスがここで告発しているのは、彼らが陥っていた極端な形式主義と偽善です。当時の宗教指導者たちは、細かな規則には異常なほど厳格でした。しかしその一方で、最も大切な「義(正しさ)・慈悲(思いやり)・誠実(信義)」という律法の精神(神の心)を平気で無視し、弱者を搾取したり、不正を見過ごしたりしていました。

 つまり、「小さなルール違反には厳しく目を光らせるくせに、重大な不正や悪事(らくだに相当するもの)は平然と犯して飲み込んでいる」という矛盾を突いているのです。

 

 イエス時代の律法学者やファリサイ派の人ばかりでなく、現代の日本に住んでいるわたしたちにもイエスの警告は当てはまると思います。