ヨハネによる福音 16:12-15

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕12 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 四旬節から始まり、聖週間、復活徹夜祭、復活節、主の昇天、聖霊降臨の主日を祝ってきた私たちは、今日三位一体の主日を祝っています。

 三位一体の主日は、神の救いのわざを思い返す日でもあります。

 第一朗読の箴言、第二朗読の使徒パウロのローマの教会への手紙、ヨハネ福音書のイエスの告別説教を通じて、神は、「父」と「御子」と「聖霊」として救いのわざをなし遂げました。

 三位一体は神の救いのわざを目にした人間の信仰告白です。

 

箴言は、擬人化された「知恵」の働きが語られます。聖書と典礼の下段の解説にあるとおり、「知恵」は神の創造のわざに先だってあり、そのみわざに参与しています。

「知恵」を福音記者ヨハネは、神の言であるイエス・キリストとして理解しました。

 

ローマの教会への手紙で、使徒パウロは「希望はわたしたちを欺くことがない」と語ります。この言葉は教皇フランシスコが交付した2025年通常聖年の大勅書のタイトル「希望は欺かない」でもあります。

大勅書の中で、教皇フランシスコは

「希望の最初のしるしは、世界の平和といいうるものです。世界は今また、戦争という惨劇に沈んでいます。過去の惨事を忘れがちな人類は、おびただしい人々が暴力の蛮行によって虐げられるさまを目の当たりにする、新たな、そして困難な試練にさらされています。この人たちに、どんな苦しみがさらに必要だというのでしょうか。助けを求める彼らの必死の訴えが、諸国の責任者たちを、世界規模の影響を認識し、あまりに多い地域紛争を終わらせることへと、どうして突き動かさないのでしょうか。武器が沈黙し、死や破壊をもたらすことを終わりにさせるというのは、過大な夢なのでしょうか。聖年は、「平和を実現する人々は、……神の子と呼ばれる」(マタイ5・9)ということを思い起こさせるはずです。平和の要請はすべての人に強く訴え、具体的な計画の実施を求めています。恒久的な平和を目指して交渉する場を勇敢に創意をもって作るための、外交努力を欠くことがあってはならないのです。」

と説きました。

 

 告別説教の中で、イエスは世に残る弟子たちに向かって言いおく言葉を語ります。

 イエスがやがて来られると予告する「その方」を「真理の霊」だと言います。

新約聖書にはどこにも三位一体という言葉はありませんが、ヨハネ福音書でイエスは繰り返し弟子たちに、父とご自分が一つであると、イエスが去った後に別の弁護者、真理の霊が弟子たちに到来すると言います。

 この言葉で思い出すのは、総督官邸内でのイエスとピラトの対話です。

 ピラトと対峙するイエスが、「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」と言うと、ピラトが、「それでは、やはり王なのか」と返します。すると、イエスは「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と答えます。

 そこで、ピラトが「真理とは何か。」と訊くと、イエスは何もお答えになりませんでした。

 

 真理という言葉は、ギリシャ語ではアレーテイアと言いますが、それは覆いが取り去られすべてが明らかになるという意味です。しかし、イエスはギリシャ的な意味で「真理に属する人は皆、わたしの声を聞く」と言ったのではなく、詩編の中で繰り返し語られる「慈しみ」と対になった「まこと」(エメト)です。この語根は、アーメンとも共通です。

 真理はイエスご自身のことでしたが、ピラトはそのことに気づきませんでした。

 

 真理の霊はイエスが洗礼を受けた日、イエスの頭上に下り、イエスはその霊の力を受けて宣教をしました。

 その霊は父なる神の霊ですが、同時にイエスの霊でもあります。

 

 イエスは三一の神のいのちの交わりの中に弟子たちと弟子たちの言葉を聞いてイエスを信じるようになった私たちをも招いておられます。

 

 唯一の神は孤高の神ではなく、父と子と聖霊の愛の交わりの神です。

 

 「父と子と聖霊のみ名によって」洗礼を受けた私たちは、三一の神のいのちのまどいの中で生きているのです。

 

 イスラエルがイランを攻撃し、イランはイスラエルに報復をしています。パレスチナだけでなく、中東全体が戦争状態になりつつあります。戦争で傷つくのは、為政者ではなく、庶民です。

 

 神の「慈しみとまこと」が戦地にもたらされるよう祈りましょう。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・33「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

 イエスは自分の教えを権威付けるために誓いを用いたことはなかったと言われます。さらに、イエスは、弟子たちに「一切誓いを立ててはならない」と命じます。

 人間が立てる誓いは、損なわれやすいものです。

 誓いによって自分の言葉を正当化するのではなく、行いによって自分の言葉の真実性を明らかにする必要があると思います。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・27「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

 31『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

 

 イエスは律法を外的に守っていれば十分だという考え方や、生き方を批判します。弟子たちの中には、そうした心持ちの人もいたのかも知れません。

 「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」という言葉は、聞くものを萎縮させるような厳しさですが、弟子の中には、自分の目や手に責任転嫁する人さえいたと思われます。

 自分の弱さを正直に認め、自分の弱さを抱えたまま、イエスの弟子としてイエスに付き従うことができますように。

 

 聖アントニオ(パドバ)については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/todayssaint.php?id=061301