ルカによる福音

 1・57さて、月が満ちて、エリサベトは男の子を産んだ。58近所の人々や親類は、主がエリサベトを大いに慈しまれたと聞いて喜び合った。59八日目に、その子に割礼を施すために来た人々は、父の名を取ってザカリアと名付けようとした。60ところが、母は、「いいえ、名はヨハネとしなければなりません」と言った。61しかし人々は、「あなたの親類には、そういう名の付いた人はだれもいない」と言い、62父親に、「この子に何と名を付けたいか」と手振りで尋ねた。63父親は字を書く板を出させて、「この子の名はヨハネ」と書いたので、人々は皆驚いた。64すると、たちまちザカリアは口が開き、舌がほどけ、神を賛美し始めた。65近所の人々は皆恐れを感じた。そして、このことすべてが、ユダヤの山里中で話題になった。66聞いた人々は皆これを心に留め、「いったい、この子はどんな人になるのだろうか」と言った。この子には主の力が及んでいたのである。

80幼子は身も心も健やかに育ち、イスラエルの人々の前に現れるまで荒れ野にいた。

 

 福音書で誕生が語られるのは洗礼者ヨハネとイエスだけです。

 ルカの福音書では洗礼者ヨハネはイエスの先駆けです。

 洗礼者ヨハネには、「主の力が及ん」び、「幼子(ヨハネ)は身も心も健やかに育ち」ました。その後イエスが神殿で捧げられた後、「幼子(イエス)はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれてい」ました。

 両者には聖霊の力が及んでいました。

 

洗礼者ヨハネの誕生について、くわしくは女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/sol_0624.php

 

マタイによる福音

〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕7・1「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。2あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。3あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。4兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。5偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 

 イエスが兄弟というのは弟子仲間のことだと思います。イエスが選んだ弟子たちは、四六時中、喧嘩ばかりしていたのではないかと思います。

 ペトロがイエスに「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」と訊いたとき、イエスは「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。」と応えました。

 イエスは、ふがいない弟子たちを最後まで捨て去ることはありませんでした。

ルカによる福音書 9:11b-17

 

 〔そのとき、イエスは群衆に〕11 イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた。12 日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです。」13 しかし、イエスは言われた。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」彼らは言った。「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり。」14 というのは、男が五千人ほどいたからである。イエスは弟子たちに、「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」と言われた。15 弟子たちは、そのようにして皆を座らせた。16 すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。17 すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった。

 

 今年も四旬節から始まり、聖週間、復活節、主の昇天、聖霊降臨、三位一体の主日まで、イエス・キリストの救いの営みを、祝ってきました。

 その最後に、キリストの聖体を祝います。それは救い主キリストが聖体という仕方でわたしたちと共に世の終わりまで共にいることを祝うことです。

 

 一宮教会の聖堂名は「キリストの聖体」です。10時のミサで、二人の子どもたちが初聖体を受けます。この二人の子どもたちとともに、聖体の姿でわたしたちと共にいてくださるキリストに、感謝と賛美をささげましょう。

 

 第一朗読は創世記です。メルキゼデクが誰なのか詳しい説明はありませんが、「いと高き神の祭司」、「サレムの王」とされます。

 メルキゼデクの祈りは、アブラハムの子孫にカナンの相続権が確約されたとする聖書的根拠とされますが、それがイスラエルのパレスチナ侵略の根拠とされているなら、時代錯誤だと思います。

 

 第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への手紙です。コリントの教会の人たちが主の晩餐を祝うとき自分勝手な振る舞いをしているのに心を痛めたパウロが主の晩餐の意義を再確認しています。パウロは「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。」と言います。主イエスの死を告げ知らせるとは、主イエスが裏切る弟子たちと最後まで食事を共にし、パンとぶどう酒をご自分の体と血であるとして与えつくしたことを告げ知らせることです。

 パウロはこれを主から受け継いだと言いますが、パウロ時代の教会では、主の晩餐の記念はさまざまな教会ですでに実践されていました。その実践が究極的は最後の晩餐での主の言葉によって受け継がれたものであるとパウロは言っているのです。

 

 福音は、ルカ福音書9章のイエスのパン増やしの奇跡です。

 パンと魚を五千人に分け与える物語は、四つの福音書すべてにありますが、福音書によって取り上げ方が異なります。ルカでは、この物語を、イエスの身元に関するヘロデのとまどい(9:7-9)とイエスに対するペトロの信仰告白(9:18-20)の間に挟んでいます。

 

 イエスが人々を迎え、神の国(神の支配)について語り、治療の必要な人々をいやしておられたのは、人里離れたところでした。そのようなところに男性だけでも五千人もいたとありますから、常識的に考えるなら、弟子たちのいうように群衆を早く解散させる必要があります。しかし、イエスは弟子たちに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」といいます。弟子たちにはイエスのいうことが無理難題のように聞こえたはずです。彼らには「パン五つと魚二匹しか」なかったからです。イエスは人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさいといいます。この五十人が百組になって座ったことになります。イエスが「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」ところ、すべての人が食べて満腹しました。

 

 この物語を、どのように受けとめたら良いのでしょうか。

 

 私はこの物語のポイントは、弟子が持っているわずかなものをすべてイエスに差し出すことと、それを受け取ったイエスが天を仰いで賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡して群衆に配らせたことにあると思います。

 

 「分かち合うことは大切だ」と私たちは日頃言いますが、人に何かを分かち合う前に、まず自分の食べる分を先取りするのではないでしょうか。

 イエスが、弟子たちの持っているものを取り分けず、すべてを祝福して弟子たちに配らせたときに奇跡が起こりました。

 

もし、私が五千人の群衆の中の一人だとしたら、自分の食べる弁当を用意して行ったと思います。ただ、それをいつ出すかは大変難しいと思います。ところがイエスと弟子たちが自分たちの持っているものをすべて差し出したことによって、集まっていた人たちも自分のお弁当をすべて出し合って食べ合ったという風にこの物語を受け止めることもできるように思います。

 

 イエスは自分のいのちを削って弟子たちに与え尽くしました。今日ミサに与る私たちはイエスの体を頂き、イエスがなさったように自分のいのちを他の人に分け与えることができますように。

 

ひとこと

 初聖体の準備のためのお話しで、子どもたちにアンパンマンの話をしました。

 アンパンの産みの親、やなせたかしさんは、幼い時に父を病気でなくし、弟を戦争でなくしています。やなせさんは兵隊として中国に送られましたが、毎日ひもじい思いをして、野草をむしったり魚を捕まえて食べながらなんとか生きながらえたそうです。

 お互いに「自分が正しい」と考えて衝突する戦争を経験したやなせさんは「何が本当の正義なのか」と考え続けたそうです。たどり着いた答えは「ひもじい思いをしている人に手を差し伸べることは、絶対的な正義だ」ということでした。

 困った人には手を差し伸べる、飢え死にしそうな人には食べ物を分け与える。これは覆らない正義です。

 そんな思いが、自分の顔をちぎって食べさせる心優しいアンパンマンを誕生させることに繋がった。

 イエス様は、最後の晩餐で、パンを取り、みなこれを食べなさい。これはあなたがたのために渡される私の体だと言い、弟子に配りました。

 アンパンマンはイエス様と似ているなあと思います。