マタイによる福音

16・13イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。14弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」15イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」16シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。17すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。18わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。19わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」

 

教皇ベネディクトはそれまで6月29日に祝われていた聖ペトロ、聖パウロの祝日を6月29日が日曜日でないなら、その前の週の主日に祝うように指示しました。今年は6月29日が主日に当たりますので、日曜日の今日聖ペトロ、聖パウロの記念を行います。

 

 聖ペトロと聖パウロは、教会の中で特別な地位を占めています。この二人の聖人は教会の礎であり、宣教活動の源です。彼らがいなければキリストを証し、キリストの教会を建て、キリスト教を発展させることはできなかったでしょう。またこの二人の聖人から神の「救いの歴史」そのものを確認することもできます。すべての教会の中でペトロとパウロ抜きには、何も語れないほど特別な聖人なのです。

 

 第一朗読は「使徒言行録」で、ヘロデ王が、ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺し、ペトロを逮捕し民衆の面前で殺そうと企んだとき、天使が獄につながれたペトロを解放した物語でした。

「使徒言行録」は1章から12章までは主にペトロの活躍が述べられ、13章から28章はパウロの活躍が述べられています

 

第二朗読は、使徒パウロが自分の生涯をふり返り、弟子のテモテに遺言のように語ります。「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられ、すべての民族がそれを聞くようになるために、主はわたしのそばにいて、力づけてくださいました。」という言葉は、ペトロ、パウロを始めとした、宣教者たちの思いではないでしょうか。

 

福音は、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」というイエスの問いに、ペトロが「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えると、イエスが、「あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」と宣言する場面です。

 

 この聖書の箇所をカトリック教会はイエスがペトロに教会を治める首位権をあたえたと解釈しています。

 「ペトロの首位権」とは、カトリック教会において、使徒ペトロがイエス・キリストから教会全体の指導者としての地位を授けられたとする教義のことです。この教義では、教皇はペトロの後継者として、全司教、信徒に対して普遍的な権威を持つとされています。

 先のコンクラーベでは、教皇フランシスコの後継者を決めるというよりは、ペトロの後継者を決めるという気持ちで枢機卿たちの心は一致していたと言われます。

 

 カトリック教会は聖ペトロを礎としています。その意味は何でしょうか。

 教会の礎は「あなたはメシア、生ける神の子です」と信じる信仰であることをイエスは宣言しているのではないでしょうか。教会法や教会制度の位階制の上に教会は建てられているのではなく、信仰共同体の信仰という土台の上に建てられているのです。

 

 イエスは教会共同体でお互いが赦しあうとき、その赦しは天でも受け入れられると言っているように思います。

 

 カトリック教会には保守派も進歩派もいますが、時の教皇は、ペトロの後継者としてカトリック信者たちを導く牧者としての役務を果たします。

ルカによる福音

〔イエスの〕2・41両親は過越祭には毎年エルサレムへ旅をした。42イエスが十二歳になったときも、両親は祭りの慣習に従って都に上った。43祭りの期間が終わって帰路についたとき、少年イエスはエルサレムに残っておられたが、両親はそれに気づかなかった。44イエスが道連れの中にいるものと思い、一日分の道のりを行ってしまい、それから、親類や知人の間を捜し回ったが、45見つからなかったので、捜しながらエルサレムに引き返した。46三日の後、イエスが神殿の境内で学者たちの真ん中に座り、話を聞いたり質問したりしておられるのを見つけた。47聞いている人は皆、イエスの賢い受け答えに驚いていた。48両親はイエスを見て驚き、母が言った。「なぜこんなことをしてくれたのです。御覧なさい。お父さんもわたしも心配して捜していたのです。」49すると、イエスは言われた。「どうしてわたしを捜したのですか。わたしが自分の父の家にいるのは当たり前だということを、知らなかったのですか。」50しかし、両親にはイエスの言葉の意味が分からなかった。51それから、イエスは一緒に下って行き、ナザレに帰り、両親に仕えてお暮らしになった。母はこれらのことをすべて心に納めていた。52イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。

 

 イエスは両親と共にエルサレムの神殿にお参りした後、両親に言わず、一人だけ神殿に残って学者たちと討論していました。

 イエスの母の問いかけに答えたイエスの言葉は、両親には理解できませんでした。

 「母はこれらのことをすべて心に納めていた」とルカは言います。

 自分の理解を越えた出来事に遭遇したとき、驚いたり、怒ったり、あわてたりするのではなく、聖母と同じように「すべて心に納め」ることができますように。

 

 聖イレネオについては女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=062801

ルカによる福音

15・3そのとき、イエスはファリサイ派の人々や律法学者たちに次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 

 イエスの話を聞こうとして、徴税人や罪人たちがイエスに近寄って来たとき、ファリサイ派の人々や律法学者たちは「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出しました。

 その時にイエスが語ったたとえ話の最初が見失った羊の話です。たとえを語るイエスの言葉は徴税人や罪人たちにも聞こえていたはずです。

 彼らは、イエスのたとえを聞いて心底喜んだことだと思います。

 

 イエスのみこころについては女子パウロ会ホームページをご覧下さい。名古屋教区では、「イエスのみこころ布教会」の司祭たちが教会司牧に協力してくださっています。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_sacra_cuore.php