マタイによる福音

 〔そのとき、〕9・14ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」と言った。15イエスは言われた。「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか。しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる。16だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。17新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」

 

 断食に関する論争でイエスは、断食の目的を問います。

 なぜ、断食をするのか。断食は神のあわれみを求めるためです。悔い改めて神に立ち帰った人が、そのしるしとして断食を行い、神のあわれみを受けます。イエスはご自分が共にいる間は断食する必要がないと断言します。

 「織りたての布」「新しいぶどう酒」はいずれもイエスの説く福音だと思います。それらは、ユダヤ教の枠内には収まらず、無理矢理あわせようとすると、服を引き裂き、革袋をかぶれさせるとイエスは言います。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは〕9・9通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、「わたしに従いなさい」と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った。10イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やって来て、イエスや弟子たちと同席していた。11ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。12イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。13『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 マタイがいた収税所はガリラヤとヨルダンの境界に位置し、通過する人から通行税を徴収する場所だったようです。

 町田クリスチャン・センター牧師の杉本智俊先生は取税人について次のように述べています。」

 取税人という職業は、ユダヤ人から「罪人」と並べられるほど、蔑まれていました。なぜなら取税人たちは、ローマ帝国のために同胞のユダヤ人から税金を取り立てていたからです。つまり、ローマ人の手先と軽蔑されたのです。取税人の仕事は、ローマ帝国に納める税金をユダヤ人たちから取り立てることです。税金には、収入に対する税金(所得税)や財産に関する税金(住民税)、通行税など、さまざまなものがありました。税金を集める仕事は、その地域の総督に与えられていましたが、実際には、税金を集める〝収税人”を現地で募集し、入札でいちばん高い値段をつけた人に取税人の権利を与え、集めさせました。取税人としての給与は、ローマ帝国から支払われるわけではなく、その分も含めて、ユダヤ人たちから徴税するというシステムでした。

 つまり、取税人の権利を買った人は、指定された期日までに、指定された税金をローマ帝国に納めなければいけませんが、そのためにユダヤ人たちからどのくらい税金を取り立てるのかは、取税人自身に任されていたのです。ローマに納める金額は決まっているため、たくさん取り立てれば、その分、取税人たちの収入が増えるということです。当時のユダヤ人たちにとって、神の民である自分たちが、異邦人(外国人)であるローマ人に支配されていること自体、受け入れがたいことでした。

 

 収税所の仕事はローマ総督からの請負の仕事ですから、無責任に放棄するとローマ総督から処罰されることが考えられます。おそらく、マタイは自分の仕事を誰かに委託した後で、自宅に戻り、自分の仲間たちと別れの宴会を開いたことが、今日の物語ではないでしょうか。

 

 ファリサイ派の人々がその様子を見て、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子たちに迫ると、イエスは「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と返します。

 

 徴税人はユダヤ社会からみればアウトカーストの人々です。イエスは、アウトカーストの人を招く救い主でした。

ヨハネによる福音

 20・24十二人の一人でディディモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。25そこで、ほかの弟子たちが、「わたしたちは主を見た」と言うと、トマスは言った。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」26さて八日の後、弟子たちはまた家の中におり、トマスも一緒にいた。戸にはみな鍵がかけてあったのに、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。27それから、トマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」28トマスは答えて、「わたしの主、わたしの神よ」と言った。29イエスはトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである。」

 

 ラザロが死んだとき、イエスはベタニアにある彼の家に行こうと言いますが、イエスが逮捕、拘束される危険が迫っていました。

 トマスは弟子仲間に対して「わたしたちも行って、一緒に死のうではないか」と死地に赴く覚悟で提案します。

 その後、イエスが告別説教で「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

 と言うと、トマスは「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」と訊きます。

トマスにイエスは「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」と答えます。

「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない。」と言うトマスは、弟子の中でも沈着冷静な人ではないかと思います。

 

聖トマ使徒については女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=070301