ルカによる福音

 6・12そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。14それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15マタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

 17イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。19群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

 

 イエスは活動のかたわら、一人で山に行き、夜を明かすまで神に祈っておられました。

 イエスが弟子の中から選び出し使徒と名付けた人々は、必ずしも優秀な人たちではありませんでした。絶えず誰が偉いかで仲間争いをし、挙げ句の果てにはイエスを裏切ることになり、イエスを知らないと言い、イエスから逃げ去ってしまいました。

 イエスはそんな彼らを見捨てず、最後まで彼らと共にいました。

 「あなたがたが私を選んだのではなく、私があなたがたを選んだ」というイエスの言葉は、復活のイエスに出会った時に、彼らの心に深く突き刺さったと思います。

マタイによる福音

 1・1アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図。

 2アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟たちを、3ユダはタマルによってペレツとゼラを、ペレツはヘツロンを、ヘツロンはアラムを、4アラムはアミナダブを、アミナダブはナフションを、ナフションはサルモンを、5サルモンはラハブによってボアズを、ボアズはルツによってオベドを、オベドはエッサイを、6エッサイはダビデ王をもうけた。

 ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ、7ソロモンはレハブアムを、レハブアムはアビヤを、アビヤはアサを、8アサはヨシャファトを、ヨシャファトはヨラムを、ヨラムはウジヤを、9ウジヤはヨタムを、ヨタムはアハズを、アハズはヒゼキヤを、10ヒゼキヤはマナセを、マナセはアモスを、アモスはヨシヤを、11ヨシヤは、バビロンへ移住させられたころ、エコンヤとその兄弟たちをもうけた。

 12バビロンへ移住させられた後、エコンヤはシャルティエルをもうけ、シャルティエルはゼルバベルを、13ゼルバベルはアビウドを、アビウドはエリアキムを、エリアキムはアゾルを、14アゾルはサドクを、サドクはアキムを、アキムはエリウドを、15エリウドはエレアザルを、エレアザルはマタンを、マタンはヤコブを、16ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。

 18イエス・キリストの誕生の次第は次のようであった。母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった。19夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した。20このように考えていると、主の天使が夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。21マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである。」22このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

 23「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。

 

 マタイ福音書はイエス・キリストの系図から始まります。

 系図は、その家系の由緒正しさを物語ります。ところがこの系図にはマリアを除いて、四名の女性の名前が書かれています。この四名はそれぞれわけありの女性たちです。

 イエス・キリストはアブラハムを始祖としながらも、罪と無縁ではない家系のヨセフの妻となったマリアから生まれました。

 家系図の書き方によれば「ヨセフはマリアによってイエス・キリストを」と述べても良さそうです。しかし、マリアはヨセフの子ではなく聖霊によって身ごもりイエスを生むことになります。

 受胎告知はガブリエルがマリアに行ったと思われていますが、ヨセフもまた受胎告知を受け、イエスの育て親になる決意をしました。ヨセフの同意がなければイエスはこの世に生まれませんでした。

 

 マリアの誕生については、女子パウロ会ホームページをご覧下さい。

  https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/festa0908.php

 

ルカ福音書14:25-33

 〔そのとき、〕25 大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた。26 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。27 自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。29 そうしないと、土台を築いただけで完成できず、見ていた人々は皆あざけって、30 『あの人は建て始めたが、完成することはできなかった』と言うだろう。31 また、どんな王でも、ほかの王と戦いに行こうとするときは、二万の兵を率いて進軍して来る敵を、自分の一万の兵で迎え撃つことができるかどうか、まず腰をすえて考えてみないだろうか。32 もしできないと分かれば、敵がまだ遠方にいる間に使節を送って、和を求めるだろう。33 だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」

 

第一朗読は知恵の書です。

 列王記で、主である神がダビデ王の後に立てられたソロモン王の夢枕に立った主である神が「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」と言ったとき、ソロモン王は、主の「民を正しく裁き、善と悪を判断することができるように、この僕に聞き分ける心をお与えください」と願います。主である神はソロモン王に「知恵に満ちた賢明な心を与える」と約束します。

 知恵の書9章でソロモンは知恵を祈り求めて祈ります。今日はその結びの部分です。ソロモンは「知恵」を「聖なる霊」と言い換え、神が与える「知恵」、「聖なる霊」によって人間は、神の計画、主の御旨を知るようになり、救われます。

 

 新共同訳では本日の朗読箇所の前に「弟子の条件」という小見出しがついています。旅の段落が初めの9章57節から62節の部分にも「弟子の覚悟」という小見出しがついています。

 ルカ福音書9章51節から18章までは「旅の段落」と呼ばれます。この段落は「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた。」(9:51)と言う言葉から始まります。十字架が待つエルサレムに向かって真っ直ぐに進むイエス自身のなみなみならぬ決意のほどがうかがわれます。

 旅の冒頭で、イエスの前に三人の人物が姿を表します(9:57-62)。この三人はイエスとのやり取りのあと、イエスの弟子となることを断念し、イエスの旅に同伴することはありませんでした。

 そのエピソードを念頭に、今日の朗読箇所を見てみると、イエスは旅の冒頭にあらわれた三人に対して言ったことと同じことを群衆に言っていることが分かります。大勢の群衆がイエスについて来ましたが、その群衆に向かってイエスは弟子の条件を告げます。

 

 「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」。

 あまりに厳しい言葉に群衆の多くはひるんで、イエスについて行くのを断念したのではないかと想像します。

 イエスについて来た群衆のおそらくほとんどは、「父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命」を憎まず、「自分の十字架を背負ってついて」来るつもりはなかったのです。

 イエスは、肉親に対する執着や、自分の命へのこだわりを捨てて、死ぬ覚悟で自分について来なければ、弟子ではあり得ないと言います。

 続く「塔を建てるたとえ」と「敵を迎え撃つたとえ」はどんな意味でしょうか。二つのたとえに共通なことは「まず、腰を据えてよく考えてみる」ことです。たとえは「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」という言葉で結ばれます。

 イエスに従うためには「まず、腰を据えてよく考え」た後に、「一切を捨てる」覚悟をする必要があります。

 実はエルサレムへの旅を始める前に「まず、腰を据えてよく考えてみた」のはイエスご自身ではなかったでしょうか。イエスは、エルサレムで弟子たちが裏切ることすら予測したかも知れません。

 最後の晩餐の後の場面で、イエスはペトロに、「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」と言います。

 シモンが、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言うと「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」と答えます。(22:31-34)

 弟子の裏切り、十字架上での死を予見しているにもかかわらず、イエスは、エルサレムへの旅をやめることはありません。まさにイエスこそご自分の十字架を背負って歩まれたかたでした。

 

ひとこと

 お手元の聖書と典礼の7ページに書いてありますように、カトリック教会は、毎年9月1日(日本の教会は9月の第一日曜日)に、「被造物を大切にする世界祈願日」を記念します。

 また、この日からアッシジの聖フランシスコを記念する10月4日まで、エキュメニカルな性格を持つ環境保護のための祈りと行動の月間「被造物の季節」(Season of Creation)が始まります。

 教皇フランシスコは今年の「被造物の季節」のテーマ「被造物の声を聴きなさい」を紹介しながら、この月間が「わたしたちの共通の家」をいたわる具体的な取り組みを促すものとなるよう願われます。

 「わたしたちの行き過ぎた消費主義が広がる中で、姉妹なる大地はうめき、わたしたちに搾取と破壊を止めるようにと懇願している」と述べた教皇は、「被造物の季節」を機会に、国連の気候変動枠組条約第27回締約国会議(COP27)と生物多様性条約第15回締約国会議(COP15)が気候変動と生物多様性の減少という二つの危機に決然と対応するため、人家族を一致させることができるよう祈ろうと呼びかけられています。

 

 戦争は兄弟殺しであるばかりでなく、「わたしたちの共通の家」である地球に破滅をもたらします。地球規模の環境破壊の危機に、日本をはじめとした巨大エネルギー消費国が一致して対処する日が来るように祈りましょう。