ルカによる福音

 〔そのとき、イエスは、弟子たちに言われた。〕16・9不正にまみれた富で友達を作りなさい。そうしておけば、金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる。10ごく小さな事に忠実な者は、大きな事にも忠実である。ごく小さな事に不忠実な者は、大きな事にも不忠実である。11だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。12また、他人のものについて忠実でなければ、だれがあなたがたのものを与えてくれるだろうか。13どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」

14金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った。15そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。人に尊ばれるものは、神には忌み嫌われるものだ。」

 

 「不正にまみれた富」というのは不正をして蓄えた富ということではなく、富を所有していると思い込んでいる人が、富の奴隷になっていることを意味しているのだと思います。

 「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」と訳されている部分は、ギリシャ語では「神とマンモンに仕えることはできない。」となっています。

 「マンモン」(Mammon)は、元来アラム語で「富」や「財産」を意味する言葉です。しかし、イエスの教えにおいては、単なる物質的な富というだけでなく、富そのものが人格化された偶像、すなわち神に代わって人の心を支配する力として扱われています。

 イエスは荒れ野で悪魔によって三つの誘惑を受けました。

三つ目の誘惑で、悪魔は「この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。だから、もしわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」とイエスに言います。それに対してイエスは「『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある。」とサタンの誘惑を退けました。

 

 「マンモン」は悪魔の別名です。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕16・1イエスは、弟子たちに言われた。「ある金持ちに一人の管理人がいた。この男が主人の財産を無駄遣いしていると、告げ口をする者があった。2そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『お前について聞いていることがあるが、どうなのか。会計の報告を出しなさい。もう管理を任せておくわけにはいかない。』3管理人は考えた。『どうしようか。主人はわたしから管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい。4そうだ。こうしよう。管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ。』5そこで、管理人は主人に借りのある者を一人一人呼んで、まず最初の人に、『わたしの主人にいくら借りがあるのか』と言った。6『油百バトス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。急いで、腰を掛けて、五十バトスと書き直しなさい。』7また別の人には、『あなたは、いくら借りがあるのか』と言った。『小麦百コロス』と言うと、管理人は言った。『これがあなたの証文だ。八十コロスと書き直しなさい。』8主人は、この不正な管理人の抜け目のないやり方をほめた。この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている。」

 

 イエスはなぜ弟子たちに不正な管理人のたとえを話したのでしょうか。

 弟子たちも「見ても見ず、聞いても聞かない」状態で、お互い同士の中で言い争いが絶えなかったのだと思います。

 イエスは、この不正な管理人の行為そのものを見習うようにこのたとえを語ったのではなく、彼が危機的な状況で素早く自分の生活を守ろうと必死になっているように、弟子たちにも抜け目なく状況に対処するよう求めたのではないでしょうか。

ルカによる福音

 〔そのとき、〕15・1徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。2すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。3そこで、イエスは次のたとえを話された。4「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。5そして、見つけたら、喜んでその羊を担いで、6家に帰り、友達や近所の人々を呼び集めて、『見失った羊を見つけたので、一緒に喜んでください』と言うであろう。7言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。」

 8「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。9そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。10言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」

 

 レビ(マタイ)は徴税人でしたが、イエスが「私に従って来なさい」と言った時、自分の家で大宴会を開きました。

 そのとき「ファリサイ派の人々やその派の律法学者たちが、イエスの弟子たちに「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか。」と非難すると、イエスは「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」と答えました。

 今回はイエスの話を聞こうとして徴税人や罪人がイエスに近寄ってくると、イエスは彼らをもてなし、食事を共にしながら話されました。

 それを見たファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と言いました。その中にはイエスを食事に招いたファリサイ派の人やその人の家に招かれたファリサイ派の人々や律法学者もいたのではないかと思います。

 イエスは彼らに向かって、三つのたとえを語りました。

 そのたとえを聞いていた徴税人や罪人はイエスを大変心強く思ったのではないでしょうか。