ルカによる福音書 23:35-43

 〔そのとき、〕35議員たちはイエスをあざ笑って言った。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい。」36 兵士たちもイエスに近寄り、酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して、37 言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」38 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてあった。

 39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ。」40 すると、もう一人の方がたしなめた。「お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。41 我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」42 そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。43 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。

 

今日はカトリック教会の典礼暦最後の主日、「王であるキリスト」の祭日です。

 

 第一朗読のサムエル記ではダビデが油を注がれイスラエルの王(メシア)とされます。

 本日の福音にはメシアという言葉が二度出てきます。メシアとは「油を注がれた者」という意味のヘブライ語です。

 新共同訳聖書の用語解説によれば、メシアという言葉は旧約聖書で39回用いられています。

 イスラエルでは、「王」(サム下2:4)「祭司」(出29:7)が、就任式のとき油を注がれました。後に「油を注がれた者」は、正しい治世をもって世を治める理想的な王だと思われるようになり(イザ11:1-10)、更に神の決定的な救いをもたらす「救い主」を指すようになりました。

 

 イエス時代のイスラエル地方はローマ帝国の植民地支配を受けており、実質的にはローマ総督が統治していました。植民地支配をするローマ帝国の勢力を打ち払い、民族を解放するかつてのダビデ王のような支配者の到来をユダヤ人たちは待ち焦がれていました。熱心党と呼ばれる過激派たちもいたようです。イエスの十二使徒のなかにも「熱心党と呼ばれたシモン」の名があります。

 イエスを取り巻く人々の中にはイエスこそイスラエル民族をローマ帝国から解放する指導者、救い主ではないかという期待が高まりました。

 他方、自分たちの組織と身の安全を最優先に考える大祭司などユダヤ教の体制側は不穏分子と思われたイエスの殺害を企みます。結果的にイエスはローマ総督により、死刑宣告を受け、植民地における反逆者、凶悪犯罪者たちへの見せしめとする極刑の十字架刑を執行されます。

 イエスは茨の冠を押しかぶらされ、十字架上で息絶えます。イエスの十字架にはピラトにより「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書かれた捨て札が付けられました。

 十字架に掛けられたこの王は、他人を救えても自分を救うことのできない王なのです。

 イエスに対する嘲りの中に期待が外れたユダヤ人の悔しさが現れているように思います。しかしこの現場に居合わせた人たちとは異なる心の動きを見せた人がいます。それはイエスと同じように十字架にかけられていたもう一人の犯罪人です。彼はイエスが「何も悪いことをしていない」ことを認めています。そして「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願いました。

 彼は罪がないにもかかわらず、罪人の報いを共に担うメシアを十字架のイエスに見ました。

 

 イエスを挟んで二つの十字架が対置されています。一方には十字架から降りることのできないイエスはメシアではなく、十字架は彼がメシアではないことの証拠だと見なす人がいます。反対側にはイエスは十字架から降りないからメシアなのであり、十字架こそメシアであるしるしなのだと考える人がいます。

 

 この出来事を「立って見つめる」民衆は、わたしたちの姿でもあります。二つの十字架観のどちらを選ぶのか、わたしたちは選択を迫られています。

 

 イエスが楽園に行くと明言したのは、イエスと共に十字架刑を受けている犯罪人の一人でした。もし善業が神の国、楽園に行く条件であったとすれば、この犯罪人はどう見ても楽園に行く資格にかけているといわざるをえません。

 

 私はこの物語に大きな慰めを受けます。イエスは悪事の報いを受けて悲惨な死を迎えなければならない罪人のすぐそばで、罪がないにもかかわらず、同じ苦しみを引き受けてくださいます。イエスが共にいて、共に苦しまれることによって、私たちの罪は赦され、神のいのちに招かれるのです。私たちの希望は、罪や死によって断たれるのではなく、私たちと共におられるイエスによって、ゆるされ、神のいのちへとつながれます。

 

 十字架につけられたイエスこそ私たちの王、キリストです。私たちがイエス・キリストと発音するとき、イエスがメシア、神から油を注がれた王であるという最も短い信仰宣言をしているのです。

 

ひとこと

 わたしたちの王は十字架につけられた方です。理不尽な虐待を受けて呻く人々の声は十字架につけられた方の呻きに重なります。

 主よ、わたしたちをあわれんでください。

 

ルカによる福音

 そのとき、20・27復活があることを否定するサドカイ派の人々が何人か近寄って来て、イエスに尋ねた。28「先生、モーセはわたしたちのために書いています。『ある人の兄が妻をめとり、子がなくて死んだ場合、その弟は兄嫁と結婚して、兄の跡継ぎをもうけねばならない』と。29ところで、七人の兄弟がいました。長男が妻を迎えましたが、子がないまま死にました。30次男、31三男と次々にこの女を妻にしましたが、七人とも同じように子供を残さないで死にました。32最後にその女も死にました。33すると復活の時、その女はだれの妻になるのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのです。」34イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、35次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。36この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。37死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。38神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」39そこで、律法学者の中には、「先生、立派なお答えです」と言う者もいた。40彼らは、もはや何もあえて尋ねようとはしなかった。

 

 サドカイ派が死者の復活を否定する主な理由は、二つあると言われます。

 サドカイ派が最高の権威と見なすモーセ五書には「死者の復活」に関する明確な教えがないため、「復活」には聖書的な根拠がないものと見なしました。

 サドカイ派は、主に祭司階級や富裕層などの知識人に多く、現実の生活や政治に重きを置いていました。「復活」は現世の肉体が蘇るという、非現実的で理性を超えた概念と捉え、冷静に、あるいは冷やかに見て、これを否定したと言われます。

 「復活」は「蘇生」ではありません。蘇生は生物にはありうることです。人間の場合、蘇生は一度死んだと思われた人が、息を吹き返すことです。ラザロやヤイロの娘は蘇生しましたが、やがて死ぬことになります。

 復活は、全く新しい、命への変容です。イエス・キリストに起こったことであり、二度と死ぬことはありません。

 とはいえ、わたしたちは復活を体験しているわけではないので、実際はどのようになるのか予測することはできません。

 

 「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」というイエスの言葉を信じて、お委ねするしかありません。

 

 聖セシリアおとめ殉教者については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=112201

 

ルカによる福音

〔そのとき、〕19・45イエスは神殿の境内に入り、そこで商売をしていた人々を追い出し始めて、46彼らに言われた。「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家でなければならない。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」

47毎日、イエスは境内で教えておられた。祭司長、律法学者、民の指導者たちは、イエスを殺そうと謀ったが、48どうすることもできなかった。民衆が皆、夢中になってイエスの話に聞き入っていたからである。

 

 神殿で商売をする人たちは、遠方からの巡礼者のために、牛や羊、鳩などのいけにえにする動物を売っていました。また、神殿に収める税金や献金は、ローマの貨幣ではなく、シェケルという神殿用通貨でなければならず、そのために両替商もいたのです。

 イエスが神殿の境内で商売をしていた人々を追い出したのは、これらの商売自体が律法で認められた「必要なもの」であったにもかかわらず、それが「金儲けのための商売」と化していたからです。

 カトリック教会の巡礼地でも、祈ることよりは土産物を買うことに熱心な人々がいます。

 マリアの奉献については、女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint50.php?id=112101