ヨハネによる福音

 1・19ヨハネの証しはこうである。エルサレムのユダヤ人たちが、祭司やレビ人たちをヨハネのもとへ遣わして、「あなたは、どなたですか」と質問させたとき、20彼は公言して隠さず、「わたしはメシアではない」と言い表した。21彼らがまた、「では何ですか。あなたはエリヤですか」と尋ねると、ヨハネは、「違う」と言った。更に、「あなたは、あの預言者なのですか」と尋ねると、「そうではない」と答えた。22そこで、彼らは言った。「それではいったい、だれなのです。わたしたちを遣わした人々に返事をしなければなりません。あなたは自分を何だと言うのですか。」23ヨハネは、預言者イザヤの言葉を用いて言った。「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』と。」24遣わされた人たちはファリサイ派に属していた。25彼らがヨハネに尋ねて、「あなたはメシアでも、エリヤでも、またあの預言者でもないのに、なぜ、洗礼を授けるのですか」と言うと、26ヨハネは答えた。「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。27その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」28これは、ヨハネが洗礼を授けていたヨルダン川の向こう側、ベタニアでの出来事であった。

 

 壮大なロゴス賛歌の後に、「わたしは水で洗礼を授けるが、あなたがたの中には、あなたがたの知らない方がおられる。その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない。」という洗礼者ヨハネの証しが続きます。

 ヨハネ福音書では、洗礼者ヨハネは、イエスを「わたしの後から来られる方」であると知ってはいましたが、イエスに洗礼を授けてはいません。ヨハネはイエスを指し示す人物として描かれています。

 

 聖バシリオ、聖グレゴリオ(ナジアンズ)司教教会博士については女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=010201

ルカによる福音

 〔そのとき、羊飼いたちは、〕2・16急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。17その光景を見て、彼らは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。18聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。19しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。20羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

21八日たって割礼の日を迎えたとき、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である。

 

 今日は、「神の母聖マリア」の祝日、「世界平和」の日、一宮教会では「新成人を祝う日」です。

 

 能登半島地震が発災したのは二年前2024年の1月1日午後4時10分でした。

 皆がお正月を楽しんでいるときに、能登半島では、最大震度7の激震に見舞われました。その後も水害に襲われ、いまだに能登半島の先の方では復旧がはかどっていないと報道されています。

 能登半島は名古屋教区に属しています。のとサポートセンター長は、皆さんもご存じの片岡義博神父です。昨年9月27日に輪島教会の新聖堂献堂ミサが行われました。この教会は輪島周辺の復興支援ベースでもあります。このミサでわたしたちは、能登半島地震の被災者の皆さんのためにお祈りしましょう。

 

第一朗読は、「民数記」の「アロンの祝福」です。

主があなたを祝福し、あなたを守られるように。

主が御顔を向けてあなたを照らしあなたに恵みを与えられるように。

主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように。

 という言葉はまことに新年を迎えるにふさわしい祝辞だと思います。

 

 平安はヘブライ語で「シャーローム」、ギリシャ語は「エイレーネー」、アラビア語は「サラーム」です。「シャーローム」「エイレーネー」「サラーム」は、ただ争いのない状態ではなく、神の祝福に満たされた状態をさしています。

 神の祝福が、恐怖と不安におびえて新年を迎える方がたにありますように。

 

 第二朗読は、「使徒パウロのガラテヤの教会への手紙」です。パウロは、神が御子をお遣わしになったのは、「わたしたちを神の子となさるためでした。」と語ります。私たちはイエス・キリストによって、神を「アッバ、父」と呼べるようになり、イエスの兄弟姉妹としていただけるようになりました。

 

 福音はルカ福音書のイエスの誕生物語の一節です。

 羊飼いたちが、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」という天使の告知を受けて、飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を捜し当てた場面です。

 乳飲み子であるイエス様と出会ったとき、彼らは自分たちの生きている意味を見いだしたたのだと思います。彼らの人生の目的は、救い主に出会うことだったと彼らは気づきました。

 救い主と出会った彼らは自分たちが見聞きしたことを人びとに伝えますが、それを聞いた人びとは皆、羊飼いたちの話を不思議に思いました。直接、その場面に遭遇しなかった者には理解ができないことだったのです。

 その一方で、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしました。

 

 私たちは思いがけない出来事に遭遇すると、神に捨てられたように感じてしまうことがあります。しかし、聖母マリアはご自分に起こる出来事をすべて心に納めて、思い巡らす人生を歩まれました。

 

 私たちも、この一年、私たちに起こるすべての出来事を聖母マリアにならいすべて心に納めて、思い巡らして生きることができるよう願いましょう。

 

 特に、能登半島地震の被災者、聖地、ウクライナやアフガニスタン、シリア、ミャンマーなどの紛争地で新年を迎える方がたに平和が訪れるよう心を合わせて祈りましょう。

 

ヨハネによる福音

1・1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。2この言は、初めに神と共にあった。3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 6神から遣わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。7彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証しをするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言は世にあった。世は言によって成ったが、世は言を認めなかった。11言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。12この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、神によって生まれたのである。

 14言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 15ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

 

 ヨハネ福音書の冒頭は、ロゴス賛歌と言われ、壮大な叙事詩のようです。

 「初めに言(ロゴス)があった。」という出だしは、聖書の冒頭「初めに神は天と地を創造された(創世記1:1)」と呼応しています。

 それにより、キリストは神によって「造られた最高傑作」ではなく、神と同じ本質を持ち、「造られることなしに永遠に生まれた」存在であると言われます。

 

 こうした考えをロゴス先在説と言いますが、ヨハネ福音書を教えて下さった小林稔神父は、「私見によれば、ヨハネ福音書のこのような主張には、律法が世の始まる前から存在していたというユダヤ教のラビたちの発想が前提され、これに対抗してイエスの啓示を対峙させているように思われるのだが、そこには師を通して完成されるという時間的な発展がない。イエスは最初から完全なものとして、神から派遣され、再び天に戻っていく」と解説しています。

 

 小林神父は、ロゴス賛歌はヨハネ福音書全体の要約のようだと言っています。

 イエスに愛された弟子であるヨハネが、イエスとの出会いの時から復活のイエスとの遭遇に至るまでの体験をロゴス賛歌で歌い上げているのです。