マタイによる福音

 3・13 そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。14 ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」15 しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。16 イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。17 そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえた。

 

 典礼暦は、先週の「主の公現」から今週の「主の洗礼」へと進行します。それは典礼がクリスマスの喜びからイエスの公生活へ移行することをあらわしています。

 

 第一朗読はイザヤの預言です。

 主である神は、選んだ僕の上にご自分の霊を置きます。その僕は、「見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出す」使命を受けます。その僕とはイエス・キリストのことに外ならないとキリスト教徒は受けとめました。

 

 第二朗読は使徒たちの宣教です。

 ペトロは、「どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」といい、「神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべていやされた」と宣言します。イエスの洗礼は、神が聖霊と力によってイエスに油注ぐものでした。

 

 福音はマタイ福音書のイエスの洗礼の場面です

 イエスは宣教活動の始めに、悔い改めの洗礼を授けていた洗礼者ヨハネのところに来て、洗礼をご自分に授けるように願います。

 洗礼を受けるためにイエスが洗礼者ヨハネの前に登場すると、彼は「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」と戸惑います。洗礼者ヨハネはイエスが罪のない方であることを知っていたのです。しかし、イエスは「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいこと」だと言います。その言葉に従って、洗礼者ヨハネはイエスに洗礼を授けました。

 イエスが洗礼を受けて水の中から上がると、天がイエスに向かって開き、イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になりました。そのとき、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。その声は洗礼者ヨハネを始めその場にいたすべての人びとに宣言されました。

 その後、イエスがペトロ、ヤコブ、ヨハネと共に高い山に登ったとき、突然イエスの姿が変わり、モーセとエリアが現れた時、その光景を目にしたペトロがうろたえてイエスに仮小屋を三つ作りましょうかと訊くと、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が再び聞こえました。

 

 イエスの宣教のはじめと、受難のはじめに神が「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とイエスに呼びかけました。

 

 イエスに対する神の呼びかけは、わたしたちに取ってどんな意味があるのでしょうか。

 

 カトリック教会での今の洗礼の方法は、頭に水を三度かけて「父と子と聖霊のみ名によってあなたに洗礼を授けます。」と言う方式です。

 その時、わたしたちは洗礼を受けたイエスが父である神から「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけられたのと同じように、わたしたちにも父である神は「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と呼びかけてくだるのだと思います。

 そしてこの神の宣言は私たちが生きている限り取り消されることはありません。

 

 私たちは、人生に挫折し、人間関係に苦しみ、罪悪感に責められる時、何で自分は生まれたんだろう、これ以上生き続けることにどんな意味があるのだろうとうめくことがあります。

 

 その時「わたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言って頂いたことを思い出せれば、どれほど心強いでしょうか。

ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕3・22イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 

 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けたと述べていません。洗礼者ヨハネの弟子たちが「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」とヨハネに報告しますが、ヨハネ福音書はイエスが洗礼を授けていたのではなく、イエスの弟子たちが洗礼を授けていたと強調します。イエスの弟子たちの洗礼は、イエス復活後の弟子たちによる洗礼とは異なり、イエスの弟子になり、イエスに付き従う者となる決意を示すものだったのかもしれません。

 洗礼者ヨハネは、イエスの弟子たちが増えていることを聞いたとき、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言います。洗礼者ヨハネはイエスの先駆者としての使命を自覚していました。

 洗礼者ヨハネの自覚は、教会で司牧者(牧会者)として働く者に通じます。

ルカによる福音

 5・12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 

 「重い皮膚病」と訳されている言葉を、新約聖書翻訳委員会の佐藤研氏は「らい病」としています。

 解説には、病をしばしば罪の結果の罰とみなす当時の観念の中でも、「レプラ」は特にその典型例であった。社会的な偏見と差別のあり方が、ここでの「レプラ」と日本の歴史上の「らい病」とでは類似しているので、あえて「らい病」という訳語にしたとあります。

 日本ではこの病気に罹患したと判断されると、強制収容所のようならい病院に収容されました。「重い皮膚病」という言葉では、「らい病」という名に込められたのろいをあらわすことができないと思います。

 名古屋教区の先輩司祭には、誤診で「らい病」とされ、誤診が判明したのち、司祭になった方がいらっしゃいます。