マタイによる福音21:28-32
〔そのとき、イエスは祭司長や民の長老たちに言われた。〕28 「あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。32 なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」
第一朗読のエゼキエルは、18章の冒頭で、エゼキエルは「先祖が酢いぶどうを食べれば 子孫の歯が浮く」ということわざを引き合いに出します。
当時のイスラエルの人々は、自分たちの国が滅びに向かう苦しみの中で、「主の道は正しくない」と不平を漏らしていました。
彼らには、なぜ私たちが先祖の罪のせいで苦しまなければならないのかという、不条理感が蔓延していたのです。
しかし神は、預言者エゼキエルを通してそれをきっぱりと否定されます。
「悪人がその行った悪から離れるなら、彼は自分の命を救うことができる」。
神は、血筋や過去の因習、あるいは「親のせい・時代のせい」という決定論ではなく、「いま、この瞬間における一人ひとりの回心と責任」を見つめておられます。
18章は「イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という主なる神の言葉で結ばれます。
「わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ」という神の言葉にわたしたちも力づけられます。
福音は、イエスが祭司長や民の長老に語ったたとえです。
イエスのたとえの中心は父親の指示に対する兄弟の応答です。「ぶどう園に行きなさい」という父親に対して、兄は「いやです」と答えた後で、「考え直して」出かけます。同じ言いつけを聞いた弟は、「お父さん、承知しました」と言ったのに出かけなかったとイエスは言います。そして、「この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか」と祭司長や民の長老たちに問いかけます。彼らは「兄の方です」と答えざるを得ません。
祭司長や長老たちは、律法を守り、神のおきてに従った生活を送っていると自負していました。新共同訳で「お父さん、承知しました」と訳されている弟の答えは原文では、「キュリエ、エゴー」です。キュリエは「主よ」、エゴーは「私」です。ギリシャ語で、あえてエゴーという場合、「私」をことさら強調する表現となります。従って、「主よ、私こそが」と翻訳することもできます。
「主よ、私こそが」という思いは、祭司長や長老の気持ちでした。他方、たとえに登場する兄は徴税人や娼婦だとイエスは言います。律法学者や長老から見れば彼らは律法を守らず、神の救いとは無縁の者たちでした。しかし、彼らは洗礼者ヨハネと出会って、自分の生活を「考え直して」、彼のことばを信じました。
自分たちは律法を守って神の掟に従っていると豪語する祭司長や長老たちではなく、彼らが軽蔑していた徴税人や娼婦の方が「神の国」に先に入る、とイエスはいいます。
なぜなら、義の道を示した洗礼者ヨハネの言葉を信じ、受け入れたのは、徴税人や娼婦だったからです。人間の現実の姿を認めずに、神の指示を果たしていると思い込んでいた祭司長たちや長老たちは、かえってそれに従っていないとイエスは指摘します。
神の掟どおりに生きることができないことに苦しみ、洗礼者ヨハネの回心の呼びかけを受け入れた徴税人や娼婦が、結果的には神の言葉に従うことになったのです。
神学者のロナガンは「スコトーシス」という言葉で、人間の頑なさを説明します。スコトーシスとは、ギリシャ語の闇を意味するスコトスに由来します。ロナガンは、「スコトーシスは、起こってほしくないさまざまなひらめきを起こしうる視野の広がりが、意識にのぼってこないように妨げる異常である」と説明しています。
ヨハネの福音でイエスが生まれつきの盲人を癒やしたとき、わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」とイエスは言うと、ファリサイ派の人々は、「我々も見えないということか」とイエスに反論します。そのときイエスは、「見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、『見える』とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。」と返しました。ファリサイ派の人びとは「スコトーシス」に陥っていたのです。
祈りましょう。
主よ、私たちはしばしば口先だけで信仰を語り、実際の行動を伴わせずに生きることがあります。また、自分の不遇を環境や他者のせいにしがちです。
どうかあなたの聖霊によって私たちの心を新しくし、過去のこだわりやしばりから解放してください。私たちが「いやです」という不従順から立ち直り、あなたのぶどう園に向かう一歩を踏み出す勇気を与えください。