マタイによる福音
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕18・15「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。16聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。17それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
18はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。19また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。20二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
年間第23主日のみことばの主題は、「信仰の兄弟に対するいさめ方」ではないでしょうか。
第一朗読はエゼキエルの預言です。主はエゼキエルに、「わたしが悪人に向かって、『悪人よ、お前は必ず死なねばならない』と言うとき、あなたが悪人に警告し、彼がその道から離れるように語らないなら、悪人は自分の罪のゆえに死んでも、血の責任をわたしはお前の手に求める」と言います。エゼキエルは単に主の警告の言葉を伝えれば良いというのではなく、相手がその道から離れるように心を尽くして語らなければならないのです。もし、エゼキエルが心を尽くして説得しても相手がその道から立ち直らない場合は、「彼は自分の罪のゆえに死に、あなたは自分の命を救う。」と神は言います。
本日の朗読箇所のすぐ後で、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」と主は語ります。
責任という言葉は英語でresponsibilityと言います。「責任を取って辞職します」という言葉をよく耳にしますが、「応答能力」ということから考えると、自分に託された使命を果たすことが責任です。
エゼキエルは、神の警告を聞く人が回心するように、心を尽くして語る必要があります。
マタイ福音書18章の冒頭で、弟子たちがイエスのもとに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と尋ねます。それはイエスの二度目の死と復活の予告の後でした。イエスの予告にもかかわらず、弟子たちは互いに仲間争いをしていたのです。イエスは、弟子たちに「迷い出た羊」のたとえを語ります。イエスはそのたとえの結びで、「そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない」(14節)と言います。この言葉は、「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」とエゼキエルに語る主の言葉に重なります。
その後の箇所が本日の朗読箇所です。イエスは「兄弟があなたに対して罪を犯したなら」と語り始めます。この兄弟は弟子仲間です。兄弟に忠告を与える、あるいはいさめるのは兄弟を得るためです。それで解決すれば、兄弟と和解することができます。それで聞きいれてもらえない場合は、一人か二人の兄弟と一緒にいさめます。他の兄弟たちにもいさめる内容を確かめてもらうためでもあるでしょう。しかし、それでも聞きいれない場合は教会に申し出て、いさめます。更にそれでも聞きいれないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさいとイエスは言います。
兄弟をいさめる場合、兄弟を得るために、情理を尽くして説得する必要があるのです。
イエスは兄弟に対するいさめ方の話の終わりに、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」と言います。
ひとこと
思想家・武道家の内田樹さんは「情理を尽くして語る」ことについて述べています。
内田さんは、誰かに何かを伝えるときに、論理的な正しさだけでなく、聞き手の感情や痛みに寄り添う心を合わせ持つことが必要だといいます。
また、言いたいことだけ言って「あとは勝手に考えろ」と切り捨てるのではなく、相手に理解してもらうための手間を惜しまないことも必要です。
「なんとしてもこの思いを伝えたい」という切迫感をもって、全身全霊で言葉を差し出す態度がなければ言葉は空しく空回りします。
「なんとしてもこの思いを伝えたい」。それが神がエゼキエルに求めたことであり、イエスが弟子たちに求めておられることではないでしょうか。
「なんとしてもこの思いを伝えたい」という切迫感をもって、何を、何時、誰に語っているか、私自身も自分をふり返る必要があります。