マタイによる福音
〔そのとき、イエスは言われた。〕23・23「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。24ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
「あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。」というイエス・キリストの言葉は律法学者やファリサイ派の人々に向けられた非常に痛烈な批判です。
古代のパレスチナの文化や、当時の言葉のニュアンスを踏まえると、この表現には以下のような意味と皮肉が込められています。
1. 「ぶよ」と「らくだ」
ユダヤの律法では「虫(不浄な生き物)を食べてはならない」と定められていました。そのため、飲み物に小さな虫や「ぶよ」が入っていないか布で念入りに漉して、小さなゴミや虫さえも口に入らないように細心の注意を払っていました。「らくだ」は当時のユダヤにおいて最も巨大で、かつ(ぶよと同様に)律法では不浄とされる動物でした。
つまり、「目に見えるような極めて微細な虫(ぶよ)が入らないように神経をとがらせている一方で、目の前にいる巨大な不浄な生き物(らくだ)すら丸呑みしている」という、完全にちぐはぐで滑稽な様子を描いています。
2. 「形式主義」と「本質の欠落」への批判
イエスがここで告発しているのは、彼らが陥っていた極端な形式主義と偽善です。当時の宗教指導者たちは、細かな規則には異常なほど厳格でした。しかしその一方で、最も大切な「義(正しさ)・慈悲(思いやり)・誠実(信義)」という律法の精神(神の心)を平気で無視し、弱者を搾取したり、不正を見過ごしたりしていました。
つまり、「小さなルール違反には厳しく目を光らせるくせに、重大な不正や悪事(らくだに相当するもの)は平然と犯して飲み込んでいる」という矛盾を突いているのです。
イエス時代の律法学者やファリサイ派の人ばかりでなく、現代の日本に住んでいるわたしたちにもイエスの警告は当てはまると思います。