ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕20・11マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、12イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。13天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」14こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。15イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」16イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。17イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」18マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。

 

 マグダラのマリアはなぜイエスが立っておられるのを見ても、イエスだと気づかなかったのでしょうか。

 マグダラのマリアは「イエスが死んでしまった」という悲しみで、イエスの顔をよく見ていなかったのかもしれません。しかし、マグダラのマリアは自分の名前を呼ぶイエスの懐かしい声を聞くことによって、それがイエスだと気づいたのです。

 イエスは、「羊はその声を聞き分ける。」と言いました。マグダラのマリアは、イエスの声を聞き分けたのです。

 

 ヘンリ・ナウエンはイエスとマグダラのマリアとの出会いについてつぎのように言います。

 この単純素朴な出会いに、真の信仰的な瞬間を見ることができます。すべての恐れは消え、すべてが愛になりました。そして、次のイエスの言葉以上に、それをよく言い表したものはありません。「わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と」。ここにはもはや、イエスとイエスの愛する人々との違いはありません。イエスが楽しんでおられる御父との親密さの中に、人々を含めています。同じ家族に属し、神にあって同じ命を共有しています。

(ヘンリ・ナウエン『ナウエンと読む福音書』 あめんどう2008年)