本日の典礼は、入祭の時にイエスのエルサレム入城の福音が朗読されます。
福音朗読は、マタイによる主の受難の物語(マタイ27章11節から54節)ですが、受難の朗読劇のためテキストは割愛します。
本日の第一朗読は『イザヤの預言』の苦しむ主の僕の物語、第二朗読は使徒パウロの『フィリッピの教会への手紙』の中のキリスト賛歌と呼ばれる部分、福音朗読は『マタイによる福音書』のイエス・キリストの受難です。
三つの朗読は互いに関連しています。お手元の「聖書と典礼」をお持ち帰りになり、もう一度ゆっくり読み、黙想することをお勧めします。
第一朗読のイザヤ書は「主の僕の歌」と言われる箇所です。この主の僕が理不尽な迫害を耐えることができたのは、「朝ごとに新たにされる神との交わり」によるものでした。この朝ごとの神との交わりで、神が与えた耳を通して聴いた神のことばが彼を支え続けたのです。
第二朗読の「フィリピの信徒への手紙」(2章6節〜11節)に記されている「キリスト賛歌」は、初期キリスト教において最も重要かつ美しいテキストの一つです。
この部分は、当時の教会で歌われていた「賛美歌」であったと言われています。
前半は、キリストが自らを空(むな)しくし、人間となって十字架にかかるまでのプロセスが歌われます。後半は、自らを低くしたキリストを、神が宇宙の主権者として高く引き上げることが歌われます。
パウロは、フィリピの教会の人びとが、自分を空しくし、神によって高く上げられたキリストを見ならうようこの「讃美歌」を引用しました。
福音朗読はマタイによるイエス・キリストの受難です。福音朗読は、キリスト、語り手、群衆、他の途上人物に分かれて朗読劇の形で進行します。古来より聖金曜日にこの朗読は行われていましたが、受難週の始まりである本日にもイエスの受難が朗読されます。
ナウエンはイエスの死について次のように黙想します。
イエスは死なれました。死の力が主を打ち砕きました。死の力とは、恐怖にかられたピラトの判決、ローマ兵による拷問、そして凄惨な十字架刑をさすだけでなく、この世の権力者、支配者の力をも指しています。死につつあるイエスを見つめると、そこに、死につつある世界が見えてきます。十字架上のイエスは、すべての人を身元に引き寄せ、何百万人もの死を死なれました。拒絶された人、孤独な人、犯罪者のためだけでなく、身分の高い人、権力者、有名人や著名人の死も死なれました。とりわけ、ふつうの生活を送り、年を重ね、疲れてはいても、人生は無駄でなかったと信頼している、すべての人々の死を死なれたのです。<中略>
この奥義に私たちが入って行けばいくほど、苦しんでいるこの世界を、神の内にある秘められた世界として見るようになります。神がいなければ、人類の苦しみは耐え難いばかりでなく、直視することさえできません。
しかし、世界の痛みと神の痛みの間には深いつながりがあると知るなら、すべてが根底から異なってきます。そこから、キリストの内に、またキリストを通して、神がすべての人間の苦悩、重荷をご自身の内に引き受け、それを、神の計り知れぬ愛を認める手段としたことが分かってきます。
本日より、主の受難、死、復活を祝う聖週間に入ります。受難による救いは神秘というしかありません。悪意、裏切り、苦しみ、死が最後の答えではないことを十字架の神秘は示しています。
爆撃により、破壊と死の闇が蔽いつつある地域にキリストの平和がもたらされるよう共に祈りましょう。