マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・20「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 21あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」

 

 イエスは「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」と言います。

 律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちが守っている通りに守ることができない人を罪人や穢れた者、異邦人として断罪していました。

 しかし、イエスは弟子たちにそれ以上を求めます。

 イエスの言葉どおりに行うことは不可能だと思ってしまいます。

 律法学者やファリサイ派の人の説く義は、断食、施し、礼拝など「何をしたか(doing)」によって実現されます。

 イエスは「どのような心(being)でいるか」を基準にします。現実に殺人を犯さなくても、心の中で怒り、他人を見下すなら、それは神の目には義ではないと言います。

 ファリサイ派の義は自己義認の義です。イエスが説く義は自分は「塵」であり、神の助けなしには神の掟を守ることができないことを認める「貧しい心」から出発する義です。

 律法を「罪を避けるための規則」として守る(doing)のはファリサイ派の義です。

 神に愛されているという確信に満たされ(being)、その喜びから、律法が求める以上の愛を隣人に注ぐこと。それがイエスの言う「まさる義」です。

 

祈り

わたしの魂よ、主をたたえよ。

主の御計らいを何ひとつ忘れてはならない。

主はわたしたちを罪に応じてあしらわれることなく

わたしたちの悪に従って報いられることもない。

天が地を超えて高いように

慈しみは主を畏れる人を超えて大きい。

東が西から遠いほど

わたしたちの背きの罪を遠ざけてくださる。

父がその子を憐れむように

主は主を畏れる人を憐れんでくださる。

──詩編103:2, 10-13