マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕5・17「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。18はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。19だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。」

 20「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。

 21あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。22しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。23だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、24その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。25あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。26はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。

 27あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。

 30もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。

 31『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。32しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪をさせることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。

 33また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。34しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。35地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。36また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。

 37あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」

 

 年間第6主日の聖書と典礼の表紙には「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためではなく、完成するためである」と書かれています。

 本日のみことばのテーマは「掟を完成すること」ではないでしょうか。

 

 第一朗読はシラ書です。シラ書が書かれた紀元前2世紀にはローマ帝国の勢力の支配が拡大し、ローマの植民地には重税を課すようになりました。エルサレムにはギリシャ・ローマの文化が滲透し、ユダヤ人の支配階級の中にはそれを歓迎する人々もいたようです。そうした状況の中でシラ書の著者は「律法」の伝統を守るように勧告します。

「律法」はイスラエルの民が遵守しなければならない神の掟ですが、その掟はそもそも、民が二度とエジプトの奴隷状態に陥らないようにするための道しるべでした。

シラ書の著者は、ローマ帝国の奴隷になり、目先の利益を確保しようとする人々に「律法」の本来の機能を思い起こさせます。

 

第二朗読の『コリントの教会への手紙』でパウロが語るのは、「隠されていた、神秘としての神の知恵」だと言います。しかし、「この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。」とパウロは続けます。ここでパウロが言う知恵とはイエス・キリストご自身のことです。

 

 先週からイエスの山上の説教が朗読されています。先週は山上の説教の冒頭の八つのまことの幸せについての教えでした。今日の福音ではイエスが律法の意義について語ります。

 

 冒頭でイエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と宣言します。

 イエスは「あなたがたも聞いているとおり」と律法の核心である十戒の言葉を引用したあとで、「しかし、わたしは言っておく」と続けます。十戒の表面的な遵守ではなく、そこに込められている真意を説き明かします。

 イエスの言葉を聴いて驚いた律法学者を始めとする人々の中には、自分たちの宗教的権威を侮辱していると思った人もいるはずです。

 十戒をはじめとした律法は、エジプトで奴隷生活を送っていた民が、二度とその生活に舞い戻らないために神が定めた行動規範です。律法は、本来、人間を縛る掟ではなく、解放する神の知恵です。

 

 ブラジルの聖書学者カルロス・メステレスは『神の十戒』共同体の道しるべという小冊子の序文で次のように書いています。

キリスト教共同体の道しるべは神の法である。この法は聖書の中で、「神の十戒」 出エジプトと呼ばれている。神がその民をエジプトの奴隷生活から解放したのちに、モーセに与えられたもので、このできごとは、紀元前1250年ごろのことと考えられている。

イエスはこの法を廃止するためではなく、完成するために来た(マタイ5・17)。そして、これは現在でも、神を信じる人々にとって、重大な意味をもっている。法は道路標識のようなもので、人々に行くべき道を示してくれる。これは、実に旅の安全を保証し、活動の強い導き手ともなるものである。神が十戒を通じて、民を導こうとした目的は、次のようである。

  1.  民が奴隷の生活へもどらないようにすること
  2. 民がエジプトから脱出することによって勝ちとった自由を守ること
  3. 民が正義と兄弟愛に生きること
  4. 民が、世界の中の神のしるしとして、組織された民であること
  5. 共同体として組織された民が、すべての民の苦しみの叫びへの一つの答えであること
  6. 民が、すべての人のために望んでいることを告げる者であること
  7. 民が、神と隣人への愛の模範となること

 今日、特に注意を向けたいのは、「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。」というイエスの言葉です。

 カインが弟のアベルを殺したときから、人間は自分の欲望充足のために兄弟の命を奪う行為を続けています。

 「殺すな」という掟は、今でも変更不可能な神の掟のままです。この掟に背くいかなる行為も言葉も是認することはできません。

 あらゆる殺戮行為は決して正当化されるものではありません。神の与えた命を拒絶することは、神自身を拒絶することです。どんな敵であったとしても、もとをたどれば兄弟姉妹なのです。その意味でどんな殺害も、兄弟殺しであるといえます。

 教皇フランシスコは、これまでの教会が保持してきた「正義の戦争(Just War)」という理論をしりぞけ、「戦争は常に敗北である」と強調しました。

 教皇フランシスコはこれまでに『カトリック教会のカテキズム』の2267番(死刑について)を公式に修正しましたが、2309番(正義の戦争の条件)の条文そのものは、現時点ではまだ文字通りに「書き換え」られてはいません。

 しかし、彼は自身の回勅『兄弟の皆さん』や公式文書を通じて、カテキズム2309番を「事実上、現代では適用不可能なもの」として再定義しました。

 イエスは律法を廃止するためではなく完成するために来ました。

 

 何か理由があれば人を殺しても良いと考えることは神の律法を破壊し、人間を滅びへと陥れることです。