ヨハネによる福音

〔五千人がパンを食べた翌日、その場所に集まった〕6・24群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちも小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。25そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。26イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。27朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」28そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、29イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」30そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。31どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」32すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。33神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」

 34そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

 

「主があなたたちに食物として与えられたパン」が今日のみことばの主題です。

 

 第一朗読は出エジプト記です。エジプト脱出を果たしたイスラエルの民が荒れ野で飢えると「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている。」とモーセとアロンを非難します。

 主である神は「あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」と民に伝えるようモーセに命じます。

 自由になっても食べ物がないなら、ファラオの奴隷の方が良かったという民の不満は、奴隷になっても満腹する方がましだという露骨な欲望を露わにします。

 

 福音は、ヨハネ6章の継続朗読の第2週目です。

 ヨハネ福音書のイエスと対話相手とのやりとりでは、同じ言葉の意味にずれが生じることがあります。サマリアの女性との対話では、水という言葉の意味がずれています。

 今週の箇所では、言葉の意味がずれた奇妙な「しりとり」のような構造があるようです。26~27節でイエスは「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」と言います。イエスの言葉を「毎日食べても、つきることのないパン」のことだと群衆は受け取りました。

 それに応える群衆の言葉は原文では「何をしたらよいでしょうか、働くために神のわざ(複数)を」(28節)となり、続いてイエスは「これが神のわざ(単数)である、すなわち神がお遣わしになった者を信じることが」と答えます(29節)。

 イエスは人間がするべき、神の業は複数あるのではなく、唯一ご自分を信じることであると明言します。イエスが言う「信じること」とは、イエスにすべてを委ねることを意味しています。

26節と32節の、「はっきり言っておく」は原文では「アーメン、アーメン、わたしはあなたがたに告げる」となっています。

 この枕詞のように使われる「アーメン、アーメン」は、イエスが父である神に全面的にご自分を委ね信頼しているように、聴き手にイエスを全面的に信頼するように求める表現です。

 わたしたちの日頃の会話では、相手の言っていることと自分の言っていることがずれていると気がつけば、共通理解の所まで話を戻して確認をします。しかし、ヨハネ6章のイエスと人々との会話では意味の「ずれ」はだんだん大きくなっていきます。

 群衆は、イエスが言うことに耳を傾け、イエスが言われる新しい意味の世界に入ろうとせず、かえってイエスの言葉を自分たちの常識や欲望に引き寄せ、満足を得ようとします。

 イエスの言葉が神のいのちを啓示するのに対して、群衆は自分たちの理解のカラに閉じこもったままです。こうしてイエスと群衆との隔たりは話せば話すほど広がってゆきます。

 

平和について

 8月6日から15日まで平和旬間です。名古屋教区平和祈願ミサが8月11日13時30分からカトリック布池教会、8月12日13時からカトリック金沢教会で行われます。

 「過去をふり返ることは将来に対する責任を担うことです。」と1981年にヒロシマでアピールしたヨハネ・パウロ二世の言葉を反芻します。