マルコによる福音6:30-34

〔そのとき、〕30 使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。

 

 先週に引き続き、みことばの典礼の中心は預言者、使徒の使命です。

 

 第一朗読はエレミヤの預言です。エレミヤは紀元前7世紀頃活動しましたが、その預言の内容は四分の三が警告であることから、「わざわいの預言者」と呼ばれています。

 今週の朗読は、「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」という主の言葉から始まります。

 神はユダの王を羊の牧者に見立て、「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、『顧みる』ことをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを『罰する』」とエレミヤに告げさせます。『顧みる』と『罰する』はヘブライ語では同じバーカドという言葉だそうです。

 バーカドは「上位の者が下位の者に特別の注意を払い、その者のありさまを変えるようにとかかわること」と説明されています。

 相手の状態に応じてそのありさまを変えるようにかかわるのですから、「面倒を見る」とは、場合によって「恵みをもって訪れる」こともあれば、「戒め」たり、「罰する」こともあるわけです。

 主である神はユダの王たちが牧者として民を「顧みる」責務を果たさないので、若枝と呼ばれる新しい王を起こすといいます。

 彼の名は「主は我らの救い」と呼ばれます。「イエス」はヘブライ語では「イェホシュア」と言います。日本語聖書ではヨシュアと表記されます。

 ヨシュアはユダヤ人の男性名としてはありふれた名前のようですが、「主は救い」という意味です。

 イエス・キリストの誕生を、キリスト教徒はエレミヤの預言の成就だと受けとめました。

 

 第二朗読は使徒パウロのエフェソの教会への手紙です。パウロが宣教活動を行ったエフェソは豊かな商業都市であると共に異教文化の中心地でもありました。「二つのもの」、「わたしたち両方の者」とパウロが言うのは、ユダヤ人と異邦人のことです。エルサレム神殿には「隔ての壁」がありました。その柵は「異邦人の庭」と「ユダヤ人だけが入ることのできる中庭」を隔てていましたが、キリストは御自分の十字架によって隔ての壁を取り壊し、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされたとパウロは語ります。

 

 福音はイエスに二人ひと組で宣教に派遣された使徒たちが戻って来た様子が描かれています。イエスは戻って来た使徒たちに自分たちだけで「人里離れた所」に行って休むように指示します。休むといいますが、それは休息したり、リラックスしたりすることだけを意味しているわけではありません。

「人里離れた場所」は、イエスご自身が朝まだ暗いうちに起きて祈っておられた場所です(1:35)。荒野、砂漠は不毛の象徴であると同時に神との出会いの場でもあります。イエスは人里離れた場所で父である神と出会い、神の御心に従うエネルギーを得ました。

 他方、イエスの一行が舟に乗って、人里離れた所へ出て行くのを見た群衆は、それと気づき、一斉に駆けつけ、彼らより先に着きました。舟の行く方向へ陸伝いで行こうとすれば、何倍もの距離を行かねばなりません。そこにイエス一行の後を追う人々の必死さが現れています。

 イエスが舟から上がり、大勢の群衆を見たとき、彼らが、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められ」ました。

 イエスの目的は使徒たちと共に人里離れた場所で、祈り、休息することでしたが、人々の有様を見たとき、彼らを深く憐れみ、当初の目的を放棄しました。

「深く憐れみ」と訳されている言葉は、以前申し上げたように、スプランクニゾマイという動詞です。新約聖書の中ではイエス自身か、イエスのたとえの放蕩息子の父にしか用いられていません。スプランクニゾマイは直訳すると「はらわたを突き動かされる」という意味です。それは単なる感情の表出にとどまらず、必ず行動を引き起こします。群衆の有様にイエスは断腸の思いに駆られ、恵みの言葉を語ります。

 他方、群衆は夢中でイエスの一行を追いかけている内に人里離れた荒れ野に連れ出されたとも見ることができます。そこで、彼らは生活の思いわずらいを離れて、いのちの言葉を聴くことができました。

 使徒たちと群衆は、共に彼らが予期しなかった状況の中で、イエスの力あるわざに遭遇することになります。

 

ひとこと

 イエスは使徒たちに「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言いましたが、イエスご自身も「早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられ」ました。

 

 ヘンリ・ナウエンは『静まりから生まれるもの』という小冊子で次のように朝の静けさの中で祈るイエスについて述べています。

 息もつけないような忙しい活動の真ん中で、安らかな息づかいが聞こえます。あちこちと動きまわっている中で、しんとした静寂の時を見ることができます。多くの人々の問題に深く関わっている中心に、独り退く時のことが語られています。行動のただ中に、沈黙の祈りがあります。人々と心おきなく過ごしたあとに、独りきりになる時間があります。活動について声高に語る言葉の間に挟まった、静けさが支配するこの文節を読めば読むほど、イエスの働きの秘訣がどこにあったかに気づかされます。それは、夜が明ける前、朝早い時間に祈りに出かけたあの人里離れたところに隠されていたのです。

  朝、静かな祈りの時間を大切にしなければと反省させられます。