マタイによる福音

〔そのとき、イエスは使徒たちに言われた。〕10・34「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。35わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。36こうして、自分の家族の者が敵となる。37わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。38また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。39自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。 40あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。41預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。42はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」

11・1イエスは十二人の弟子に指図を与え終わると、そこを去り、方々の町で教え、宣教された。

 

 イエスはご自分がユダヤ教の指導者たちからは受け入れられず、やがては死に追いやられることを自覚してました。

 

 イエスに付き従う者はイエスと運命を共にする覚悟が必要です。イエスは使徒たちに、「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。」と言います。

 

 16章24節でも弟子たちに、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。」と言います。

 

 初代教会ではキリスト教はユダヤ教から迫害され、さらにローマ帝国からも迫害されて、数多くの人びとが殉教しました。

 

 聖ボナベントゥラについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=071501

 ボナベントゥラはトマス・アクイナスと並ぶ、中世スコラ哲学の巨人ですが、フランシスコ会学派の伝統は、『カトリック教会のカテキズム』にあまり反映されていないと、フランシスコ会神学者のオズボーンは嘆いています。