マルコによる福音6:1-6

 〔そのとき〕1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。4 イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。

 6 それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。

 

皆さんのお手元の聖書と典礼の表紙には、第一朗読のエゼキエル書の「霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた」が書かれています。この言葉の前に「人の子よ、自分の足で立て。わたしはあなたに命じる。」とエゼキエルは呼びかけられます。エゼキエルが神の預言者としての使命を受ける場面です。

エゼキエルは神に逆らう反逆の民のもとに遣わされるのですから、エゼキエルが直面する現実は、「あざみといばらに押しつけられ、さそりの上に座らされる」(2:6)という過酷な運命です。

しかし、彼の中に入った主の霊が彼を捕まえて離さないため彼はその運命を担うしかありません。エゼキエルは神から遣わされた真の預言者の道を歩み出します。預言者たちはいのちがけで主の言葉を伝える使命を生きます。

 

 第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への手紙です。この手紙の10章から13章はパウロが泣きながら書いたと言われ、信徒たちがコリントの教会に現れた偽使徒の方になびきパウロを見下し始めたときに書かれたものだと言われます。パウロは12章の冒頭で彼自身の神体験について語りますが、それに続く箇所が本日の朗読箇所です。

パウロは「わたしは弱いときにこそ強い」と断言します。神の恵みと力が自分の弱さの中で働くことを体験したからです。

 

 先週の福音は会堂長の娘の蘇生と出血症に苦しむ女性のいやしの物語でした。イエスは、いやされた出血症の女性に「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」と言い、娘の死の知らせにうろたえる会堂長には「恐れることはない。ただ信じなさい」と伝えました。

 

 先週の会堂長と出血症の女性のイエスへの信仰とイエスの故郷の人々のイエスに対する態度は真逆です。

 

 故郷の人々の態度には先週の会堂長や出血症の女性のような切迫感がありません。彼らはマジックショーを見る観客のようです。彼らはイエスの話を聞いたり、いやしのわざを見たりして驚きましたが、すぐに「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」と言います。こうして故郷の人々はイエスにつまずいたとマルコは述べます。

彼らに対してイエスは「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言います。「そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」とマルコは述べます。

イエスの言葉を聴き、癒やしのわざを目撃しても、他人事でしかなく、イエスへの信仰につながらない故郷の人びとの不信仰にイエスは驚かれます。

 

 霊がエゼキエルの中に入り、彼を立たせ、主の預言者としたように、イエスはヨルダン側でヨハネから洗礼を受けた時、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧にな」りました。そのとき「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえました。

 イエスを突き動かすのは、天から降った霊であり、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という父である神の言葉です。

 

 イエスの故郷の人々は、イエスが宣教を開始した原動力を気づくことがありませんでした。むしろ、幼年期の時に見知ったイエスの面影だけで、イエスを「知っているという思い込み」から、イエスの言動に躓いたのです。

 

ひとこと

 「わたしは弱いときにこそ強い」という言葉で、神父になって間なしの頃、教会でキリスト教の教えを学ぶようになった方から水野源三さんの『わが恵み汝に足れり』という詩集をいただいたことを思い出しました。詩集をくださった方は体に障害をお持ちの方でした。

 水野源三さんは9歳のときに赤痢による高熱で脳性麻痺となりました。そして、その苦しみの中でキリストと出会い、数々の詩・短歌・俳句・賛美歌を残し47才で帰天なさいました。水野さんはパウロと同じような体験をして、イエス・キリストに出会われたのだと思います。

 

喜びの歌をー弱さの中からの讃美

 

親しき友人が皆 別れていくときも

 一人ではない 一人ではない

 死んでよみがえられた

 イエス・キリストが話し掛けたもう

 その耳で聞けよ

 頼りなき 自分に失望するときも

 一人ではない 一人ではない

 死んでよみがえられたイエス・キリストが

 励ましたもうその口でたたえよ。

 

 「弱いときにこそ強い」のは、

イエス・キリストが共にいるという確信があるからです。