マルコによる福音

4・35その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。37激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38しかし、イエスは艦の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。39イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。40イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」41弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

 

 毎日ニュースで、戦争や災害の報道に接しますが、あまり実感が湧きません。能登半島で正月に起こった地震でさえ、関心を持ち続けることが難しいというのが正直なところです。

 ところが、自分が病気や事故、災害に遭遇すると、なんで自分だけがこんな目にあわなければならないのかと、怒ったり、絶望したりします。

 

 今日の御言葉のテーマは、不慮の災害や事故、病気に遭遇したときに、どのように生きるかを私たちに教えていると思います。

 

 第一朗読のヨブ記の物語はご存じだと思います。ミサの説教でヨブ記についてお話しをすることは、話が長くなるので控えざるを得ません。

 しかし、今日朗読されたヨブ記の部分だけでは、神がヨブに言っていることが全く分からないと思います。

 この物語は主人公のヨブが全く知らないところで神とサタンが話を交わすことから始まります。

 神がサタンにヨブが信仰に厚いことを褒めると、それは神がヨブに子どもや財産、健康を与えているからだとサタンが答えます。すると神はサタンにヨブからそれらのものを奪っても良いと言ったことから、ヨブの災難が始まります。

 子どもや財産を失い、体も重い皮膚病に冒されたヨブに妻が、「どこまでも無垢でいるのですか。神を呪って、死ぬ方がましでしょう」というと、「お前まで愚かなことを言うのか。わたしたちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか。」と答えます。

 ところがヨブの三人の友だちがヨブを慰めようとやって来てくると、「わたしの生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく光もこれを輝かすな。……」と嘆き始めます。

 ヨブを慰めに来た三人は、それぞれヨブの嘆きをいさめますが、ヨブは三人の言葉を全く受け入れませんでした。

 最後に、嵐の中から主なる神ご自身が現れ、ヨブに話す場面が今日の第一朗読です。

 朗読は38章1節の後、8節に飛びますが、2節-7節は「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ。誰がその広がりを定めたかを知っているのか。誰がその上に測り縄を張ったのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。基の柱はどこに沈められたのか。誰が隅の親石を置いたのか。そのとき、夜明けの星はこぞって喜び歌い/神の子らは皆、喜びの声をあげた。」と続きます。

 主なる神はご自分のわざをヨブに語りますが、ヨブが被った理不尽な苦しみのわけを教えはしません。神の言葉は41章26節まで続きます。

 神の言葉を受けたヨブは神に向かって、「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、わたしは塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます。」(42:5-6)と答えます。

 

 実に不思議な成り行きです。神に向かって問いかけたヨブに、神は答えず、逆に「答えてみよ」と問い返します。

 ヨブは自分を襲った運命に対してどう生きるのかを問われているのだと気づいたのです。

 

 ヴィクトル・フランクルは家族ともどもナチスの強制収容所に収容され、父はその収容所で殺害され、母と妻は別の収容所に移されて殺害されました。フランクル自身も殺害されるところでしたが、1945年アメリカ軍によって救出されました。

 

 彼はそのときの体験をもとに『夜と霧』や『それでも人生にイエスと言う』などの本を多く書いています。

 それらの本の中でフランクルは「問いのコペルニクス的転回」を説いています。

 

 理不尽な出来事に遭遇する時、何で自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。生きる意味があるのか、と問いたくなりますが、その問いは「人間自身が問いかけられているものであって、みずから答えなければならぬ」とフランクルは言います。

 

 自然災害や戦争やテロの被害者にとって、何故それがわたし、わたしたちに起こったのかその理由を知ることはできませんが、その出来事に意味を見いだすのは神ではなく「私」だとフランクルは言います。

 

 第二朗読は使徒パウロのコリントの教会への手紙2の5章14節から17節です。

 パウロは「その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。」(5:15)と語ります。パウロは「生き方のコペルニクス的転回」を説いていると受けとめることができます。

 

 福音はマルコ4章の湖での嵐の場面です。イエスと共に舟に乗り込んだ弟子たちは突風が起こり、舟が沈みそうになると、寝ているイエスを起こし、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫びます。

 風がやみ、波が落ち着いた後、イエスは弟子たちに「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」と言います。「怖がる」という言葉は恐怖におびえるという意味ではなく、不信仰を意味していると言われます。

 

 「弟子たちの狼狽は神に委ねきれない臆病さから生じ、イエスの静けさと権威は、神に信頼する信仰に根ざしています。」と雨宮神父は解説します。

 

 「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と叫ぶ弟子たちはまさに自分を中心にしています。彼らはイエスを中心にしてイエスと生死を共にするという覚悟がなかったのだと思います。マルコ福音書では、この弟子のふがいなさはイエスの死まで続きます。

 

 イエスの死後、弟子たちはイエスがいつも共におられることを感じ、生死をかけてイエスの福音を宣教するようになります。

 

 わたしたちが、突然の災害に襲われて苦しむとき、イエスは上からそれを見ているのではなく、そばにいて苦しみを共にしておられるのだと信じ、その苦しみのただ中で自分に与えられた使命に気づくことができますように。