マルコによる福音

〔そのとき、〕3・20イエスが家に帰られると、群衆がまた集まって来て、一同は食事をする暇もないほどであった。21身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来た。「あの男は気が変になっている」と言われていたからである。22エルサレムから下って来た律法学者たちも、「あの男はベルゼブルに取りつかれている」と言い、また、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言っていた。23そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、たとえを用いて語られた。「どうして、サタンがサタンを追い出せよう。24国が内輪で争えば、その国は成り立たない。25家が内輪で争えば、その家は成り立たない。26同じように、サタンが内輪もめして争えば、立ち行かず、滅びてしまう。27また、まず強い人を縛り上げなければ、だれも、その人の家に押し入って、家財道具を奪い取ることはできない。まず縛ってから、その家を略奪するものだ。28はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。29しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」30イエスがこう言われたのは、「彼は汚れた霊に取りつかれている」と人々が言っていたからである。

 31イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32大勢の人が、イエスの周りに座っていた。「御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを捜しておられます」と知らされると、33イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。35神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

 

 本日の聖書の典礼の表紙には「お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く」と第一朗読の創世記の言葉が印刷されています。

 

 アダムと女が蛇の誘惑に負け、園の中央に生えている善悪の知識の木の実を取って食べたことにより、彼らは楽園を追放されます。

 

 主である神は蛇に「このようなことをしたお前はあらゆる家畜、あらゆる野の獣の中で呪われるものとなった。お前は、生涯這いまわり、塵を食らう。お前と女、お前の子孫と女の子孫の間にわたしは敵意を置く。彼はお前の頭を砕きお前は彼のかかとを砕く。」と予告します。

 

 創世記は「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。」と述べます。蛇も主なる神の創造物で、主なる神と戦う悪の原理ではありません。

 

 のちに、イエスを救い主と信じる人びとは、蛇を悪霊と捕らえ、「蛇が彼のかかとを砕く」ことをイエスの受難と十字架の死に結びつけ、キリストが十字架の死によって蛇の子孫を滅ぼすことと受けとめました。

 

 創世記のこの箇所は、主である神が堕落した人間に対する将来の救いの約束として「原始福音」と呼ばれます。

 

 福音朗読では、イエスの悪魔払いや、癒やしを目にした律法学者が「あの男はベルゼブルに取り憑かれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と非難し、身内の人たちも「あの男は気が変になっている」といううわさを信じ、イエスを取り押さえに来ました。

 

 ベルゼブルについては聖書と典礼の註にあるとおり、異教の神の名「バアル・ゼブブ」に由来しますが、律法学者はベルゼブルを悪霊の頭、サタンと同一視しているようです。

 

 マルコ福音書の冒頭で、イエスはヨルダン川でヨハネから洗礼を受けました。

 

 マルコは、「水の中から上がるとすぐ、天が裂けて“霊”が鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、『あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』という声が、天から聞こえた。」と述べます。

 

 その後、「“霊”はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」とマルコは続けます。

 

 イエスは神の霊に満たされ、荒れ野でサタンからの誘惑を退けたあと、宣教を始めました。

 

 主である神の予告にあった女の子孫であるマリアの子イエスが”霊”の力でサタンを追放しているのです。

 

 イエスを「ベルゼブルに取り憑かれている」、「悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」ということは、イエスに降った”霊”を「ベルゼブル」、「悪霊の頭」ということです。

 

 律法学者たちの誹謗中傷に対して、イエスは「聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う。」と言います。なぜなら、神のゆるしをもたらす聖霊の働きを認めないばかりか、その霊を悪霊だとする者に救いはないからです。

 

 さらに、身内の人たちがイエスを捜しに来たと伝えられると、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、周りに座っている人々を見回して「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」と言います。

 

 イエスのこの言葉は、ご自分の母や兄弟を否定する冷たい言葉に聞こえますが、聖母マリアは、聖霊の力を受けて、神が告げる言葉どおりになるようにと答え、イエスを宿したのでした。

 

 イエスは、「みこころが天に行われるとおり、地にも行われますように」と祈るわたしたちをご自分の「兄弟、姉妹、母」として下さいます。

 

 主である神が創世記で語られた救いの約束がイエス・キリストによって実現したとわたしたちは信じています。

 

 イエスの兄弟、姉妹であるわたしたちがイエスと思いを一つにして、主の平和を告げ知らせるものとなりますように。