ヨハネによる福音15:26-27、16:12-15

 

 〔そのときイエスは弟子たちに言われた。〕「15:26 わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 16:12 言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

 

 今日は、聖霊降臨祭です。聖霊降臨はペンテコステとも言われます。ペンテコステはギリシャ語で「50」を意味し、キリストの復活から50日目に弟子たちの上に聖霊が降ったことを記念する祭りです。

 

 第一朗読の『使徒言行録』では、聖霊がイエスの弟子たちの上に降ったようすが描かれています。

「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、〝霊〟が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。」

 一つに集まっている弟子たちの上に聖霊がとどまり、弟子たちは宣教を始めます。実際に何が起こったのかは分かりませんが、言葉の違う人たちにも弟子たちのメッセージが伝わりました。弟子たちの活力に満ちた表情と振る舞いは、言葉の違う人びとにも伝わったのでしょう。

 

 第二朗読は『使徒パウロのガラテヤの教会への手紙』です。パウロは「霊の導きに従って歩みなさい。」とガラテヤの教会の信徒に勧告します。パウロは肉の業と霊の結ぶ実を比較します。わたしたちが肉に従って歩んでいるか、霊の導きに従って歩んでいるかは、自分の行うことによって明らかになります。

 この霊は、宣教の始めにイエスの上に降った霊であり、聖霊降臨の時に弟子たちに降った霊でもあります。

 

 イエスは弟子たちへの告別説教のなかで弁護者、真理の霊を遣わすことを約束します。

 

 旧約聖書で「霊」と訳されるヘブライ語は「ルアッハ」ですが、それは「微風から嵐まで、さまざまな空気の移動」であると解説されています。またそれは呼吸であり、神から被造物に与えられる命の息吹も表します。新約聖書で「霊」と訳されるギリシャ語は「プネウマ」ですが、動詞プネオー(吹く)から派生した言葉で、やはり「風」とか「息吹・呼吸」を意味しているといわれます。

「霊」を指すヘブライ語とギリシャ語は、人や生き物に生気を与える神の力、神のエネルギーだと理解してもよさそうです。神の霊が注がれた人は神のエネルギーに満たされることになります。

 

 ところでイエスは聖霊を弁護者とも言いますが、この言葉はヨハネ福音書(14:16、14:26、15:26、16:7)で四回、ヨハネの手紙(1ヨハ2:1)で一回登場します。

 

 ヨハネ文書の専門家の小林稔神父はイエスの告別説教を、第一部(13:31-14:31)と第二部(15:1-17:26)の二つに分けています。

 

 前半では「弁護者」と言う言葉が二回登場します。その弁護者は「真理の霊」に置き換えられています。この真理の霊についてイエスは、「世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」(14:17)と言います。さらにこの弁護者はイエスの名において父が派遣してくださる聖霊であり、聖霊は弟子たちを「すべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したことをことごとく思い起こさせてくださる」とイエスは言います。

 

 イエスの告別説教の第二部が本日の福音の箇所です。イエスは御自分の弟子たちが世から憎まれることを予告します。人々はイエスの弟子たちを憎むだけではなく、会堂から追放し、殺しさえするとイエスは言います。こうした状況のなかで弁護者は弟子たちを勇気づけ、証しをさせます。

 

 実際に、ヨハネ福音書が書かれた当時、既にイエスの追随者たちは、会堂から追放され、拷問を受けたり、石殺しされたりしていました。そのとき自分の内側から勇気と知恵の言葉が出てくるのを彼らは実感したのではないでしょうか。自分の持っている知恵や論理というよりはイエスの霊が語らせていると彼らは気づいたのです。

 迫害に遭遇する中で弁護者である、真理の霊の現存を弟子たちは体験しました。

 

 イエスは「弁護者」を「真理の霊」とも言います。「真理」という言葉で思い浮かぶのは、ローマ総督の官邸での尋問の場面です。イエスは、「わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」と言います。そこで、ピラトが「真理とは何か。」と尋ねても、イエスの答えはありません(ヨハネ18:37-38)。

 

 岩波の『哲学・思想事典』によれば「真理」は、「確実な根拠に基づいて正しいと認められた事柄、偽あるいは嘘偽と対立する」と説明されています。ピラトはイエスの言う「真理」の根拠を訊いたのかも知れませんが、イエスの答えはありません。それは、イエス自身の存在そのものが「真理」だったからではないでしょうか。イエスがいう真理とは哲学的な意味の真理ではなく、詩編で「慈しみとまこと」と歌われる「まこと」です。イエスご自身がは神の「まこと」の現れであり、イエスは死にいたるまで神の「まこと」を尽くした方でした。

主よ、あなたは情け深い神

憐れみに富み、忍耐強く

慈しみとまことに満ちておられる。(詩編86:15)

 今日、わたしたちに主の霊がくだり、わたしたちが霊の導きに従って生きることができるよう、共に祈りましょう。