ヨハネによる福音 15:1-8

 そのとき、イエスは弟子たちに言われた。1 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。2 わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。3 わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。4 わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。6 わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。7 あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。8 あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。

 

主につながって生きる

 

 第一朗読では、イエスの信奉者を脅迫し、殺そうと意気込んだパウロが、キリスト教徒を逮捕しようとダマスコに向かう途中で、突然光を浴びて、復活したイエスと出会うことによって、迫害者から宣教者に転向し、ダマスコで、イエスこそ神の子であると宣べ伝えるようになりました。

 ダマスコにいたユダヤ人たちはパウロを殺そうとしましたが、パウロはかろうじてダマスコを脱出し、エルサレムに着き、イエスの弟子たちの仲間に加わろうとしました。

ところが、サウロの迫害によって、仲間を投獄されたり、石殺しにあったりしたイエスの信奉者たちはサウロを「弟子だとは信じないで恐れ」ました。

 サウロ(のちのパウロ)はキリスト教徒、ユダヤ教徒の両方から不信の目で見られていたことになります。サウロを支え続けたのはダマスコへの途上、サウロの目の前に現れたイエスご自身でした。また、イエスのことばを受けて彼の世話をしたアナニアやバルナバでした。

 サウロはユダヤ名で、ギリシャ語はパウロスです。使徒言行録ではサウロは回心後もサウロと呼ばれていましたが、13章9節で「パウロとも呼ばれていたサウロ」と言われてからは、パウロと呼ばれるようになります。

ファリサイ人からは裏切り者として命を狙われ、キリスト教徒たちからは疑いの目を向けられていたパウロはたとえイエスと不思議な出会いをしたとしても、アナニアとバルナバがいなければ使徒として受け入れられることはなかったのではないかと思います。

主イエスご自身がアナニアに「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」と言った通り、パウロの人生は苦しみに満ちたものとなりました。

 

パウロの宣教は死を覚悟したものであることがパウロ自身の回想の中に読み取れます。パウロはフィリピの教会の信徒に、「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。」と書き送っていますがそれはまさにパウロ自身の体験に基づくことばです。

 パウロはペトロと並んでキリスト教のいしずえとなりました(使13:9)

 

 第二朗読でヨハネは、「子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう」と説きます。イエスは弟子たちにただ一つの掟を与えられました。それはイエスが弟子たちを愛したように、弟子たちが互いに愛し合うことでした。イエスはご自分が弟子たちを大事にしたように、互いに大事にしあえと弟子たちに言ったのでした。

  「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」(3;20)ということばには慰めを受けます。

ヨハネは、(神の)「掟とは、神の子イエス・キリストの名を信じ、この方がわたしたちに命じられたように、互いに愛し合うことです。」と語ります。

神の掟を守ることによって、神の内にいつもとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。

 

 福音朗読は、「ぶどうの木のたとえ」です。イエスはぶどうの木、父である神は農夫です。弟子たちはぶどうの木につながっている枝です。

 「ぶどうの木のたとえ」は、今週の1-8節と来週の9-17節の二回に分けられて朗読されます。

イエスの言葉に繰り返し表れる、「つながる」と訳されている動詞はギリシャ語でメネインといいます。この言葉はヨハネ文書に特徴的な言葉です。

解説書によれば新約聖書の全用例118回中67回がヨハネ文書に登場し、その内40回はヨハネ福音書で使われます。新共同訳では、「とどまる」、「滞在する」、「泊まる」、「いつもいる」などと訳されます。

洗礼者ヨハネは、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。」と証言しました。

洗礼者ヨハネの弟子たちが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」とイエスに尋ねると、「来なさい。そうすれば分かる」と言うイエスに付き従い、「イエスのもとに泊ま」りました。

メネインは「自分の本来のあり方を見いだしたところにとどまる」という意味です。

父である神とイエスが共に留まるっているところに、イエスの弟子たちもとどまります。

 

 弟子たちが枝として幹であるイエスにとどまっているなら必ず豊かに実を結ぶとイエスは約束されます。神のいのちにとどまっているからです。

 

 父である神にとどまるイエスはぶどうの木の幹で、枝である弟子たちに愛という樹液を与えます。この樹液を受けた枝は実をむすびます。それは互いに愛し合うという実です。

 イエスは神の愛にとどまっておられました。復活とは人が死んだ後に起こる出来事ではなく、神の愛にとどまっているときに既に起こっていることです。

 だからこそ、イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。」(ヨハネ11:25-26)と言われるのです。

 

ひとこと

 イエスは、「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」といいます。実を結ぶ枝も剪定されるということです。剪定は伸びていい枝とそうではない枝を見極めて、不要な枝を切り取ることです。父である神ご自身がわたしたちを剪定するということをパウロの「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられている」と重ね合わせて受けとめたいと思います。

 わたしたちの人生には予測のつかない苦しみや悲しみが突然起こることがあります。そのとき、父である神が「実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。」のだと受けとめることができますように。