マルコによる福音
〔そのとき、〕2・18ヨハネの弟子たちとファリサイ派の人々は、断食していた。そこで、人々はイエスのところに来て言った。「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」19イエスは言われた。「花婿が一緒にいるのに、婚礼の客は断食できるだろうか。花婿が一緒にいるかぎり、断食はできない。20しかし、花婿が奪い取られる時が来る。その日には、彼らは断食することになる。
21だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。そんなことをすれば、新しい布切れが古い服を引き裂き、破れはいっそうひどくなる。22また、だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすれば、ぶどう酒は革袋を破り、ぶどう酒も革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。」
聖書語句大事典によれば、断食について次のように説明されています。
「ユダヤ教の祭儀では、償いの日に断食がおこなわれており(→使27・09; レビ16・29,31)、その実行は、神の民の一員であることの条件とされている(レビ23・29)。このほか、イスラエルの民族的災難の記念日にも、集団的断食がなされている。敬虔なユダヤ人は、個人的信心からも断食しているが(ルカ02・37)、洗礼者ヨハネの弟子やファリサイ派の人々もその例にもれず(マコ02・18)、彼らのうちには週に2回これを実行している者もいる(ルカ18・12)。こういう人々は断食をすることにより、律法や預言者の教えが定めている義の業の一つを果たそうとしたのである。ところがイエスは、弟子たちにこの種の実行はなに一つ命じていない(マコ02・18)。それは彼が、こういう正しい業を軽視したり、廃止したりしようと考えたからではない。その反対に彼は、これを完成するために来臨したのであり、だからこそ、こうした義の業を暗示することを禁じたり、ある意味ではもっと高次の業を実行することを要求したりしたのである(マタ05・17,20, マタ06・01)。彼は、断食よりも、富からの離脱(マタ19・21)とか自発的な禁欲(マタ19・12)、とくに十字架をになうための自己放棄(マタ10・38-39)を力説する。
イエスのところに来て「ヨハネの弟子たちとファリサイ派の弟子たちは断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」と訊いた人は、彼らが当たり前のように行っている断食を、イエスの一行が行っていないことを見とがめて問いただそうとしました。
イエスは律法や預言者が語る断食の意義を明らかにします。