ヨハネによる福音1:35-42

 

35 〔そのとき、〕ヨハネは二人の弟子と一緒にいた。36 そして、歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。37 二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。38 イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ――『先生』という意味――どこに泊まっておられるのですか」と言うと、39 イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。そこで、彼らはついて行って、どこにイエスが泊まっておられるかを見た。そしてその日は、イエスのもとに泊まった。午後四時ごろのことである。40 ヨハネの言葉を聞いて、イエスに従った二人のうちの一人は、シモン・ペトロの兄弟アンデレであった。41 彼は、まず自分の兄弟シモンに会って、「わたしたちはメシア――『油を注がれた者』という意味――に出会った」と言った。42 そして、シモンをイエスのところに連れて行った。イエスは彼を見つめて、「あなたはヨハネの子シモンであるが、ケファ――『岩』という意味――と呼ぶことにする」と言われた。

 

 第一朗読はサムエル記です。シロの神殿での必死の祈りの末に、授かった子どものサムエルを、ハンナは神殿の祭司エリとの約束通り、エリに託します。

 主の神殿で寝ていたサムエルは自分に呼びかけているのはエリだと思い、エリのもとに二度行きましたが、エリは呼んでいないといいます。三度目にエリのもとにサムエルが行ったとき、エリは主がサムエルを呼ばれたことが分かり、「主よ、お話しください。僕は聞いております」と答えるようサムエルに教えます。主のみことばを聴く作法をエリはサムエルに教えたのです。それにより、主のみことばがサムエルのもとに届くようになります。

 主のみことばは、いつでも、どこでも、誰にでも語られるのではありません。特定の時に特定の場所で、特定の人に向かって語られ、語られた人がその聴き手であることを引き受けた場合にだけ、開示されるのです。神のみことばを聴く作法をサムエルは知りませんでしたが、先に神のみことばの聴き手となっていたエリがサムエルにその作法を伝授したのです。

神のみことばの聴き方自体も、人から人へと伝授されるのです。師と弟子の根本的な関係がエリとサムエルの関係に見られます。

 

 福音朗読はヨハネの弟子たちがイエスの弟子になる場面です。もし、洗礼者ヨハネが二人の弟子に向かって「見よ、神の小羊だ」と言わなかったら、二人はイエスの後を追わなかったはずです。エリとサムエルの関係が、洗礼者ヨハネと彼の弟子たちとの関係にオーバーラップしているような気がします。

 ヨハネの弟子がついてくるのを見たイエスは「何を求めているのか」と訊きます。二人が「どこに泊まっておられるのですか」と問い返すと、イエスは「来なさい。そうすれば分かる」とイエスは答えます。一見、この物語は、師である洗礼者ヨハネから「神の小羊」と宣言されたイエスに興味を抱き、ついて行った二人がイエスの宿泊場所を尋ね、イエスは来れば分かるといった筋立てのようです。

 私のヨハネ福音書の師の小林稔先生の訳ではこの部分は次のようになります。

イエスは振り返り、彼らがついて来るのを観て彼らに言う、「何を求めているのか」。彼らは彼に言った「ラビ(訳すれば先生)、どこに留まっておられますか」。「来なさい」そうすれば見るだろう」。そこで彼らは言って、彼がどこに留まっているかを見、その日は一日彼の元に留まった。

 「泊まる」、「留まる」と三回繰り返される言葉は、ギリシャ語の「メネイン」でヨハネ文書に特徴的な言葉です。ヨハネはこの言葉を父と子とのつながりの永続性、そして子とキリスト者とのつながりの永続性を現すために好んで用います。

 二人の問いはイエスの宿泊場所ではなく、イエスが本来どこに留まっておられるかを問うものでした。イエスが本来留まっておられる場とは、「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいる」(17:23)とイエスがいう場です。二人の弟子はその場を見て、そこに共に留まったのです。

 それで二人は「わたしたちはメシアに出会った」と兄弟に語ることができたのです。こうしてイエスにつながる者たちの共同体が誕生します。究極の師であるイエスと出会った後の、彼らの人生はそれまでとは全く異なるものとなりました。

 英語訳聖書(NAB)は、二人の弟子の「どこに泊まっておられるのですか」という問いかけを"where are you staying?"と訳しています。テゼ共同体の賛美歌に"Stay with Me, "という曲があります。歌詞は”Stay with me, remain here with me, watch and play”「私と共にいて、ここで私と共に留まり、目覚めて、祈れ」という歌詞です。

 

 帚木蓬生さんの『ネガティブ・ケイパビリティ──答えの出ない事態に耐える力』にこの言葉が出てきました。「Stay and watch. 逃げ出さず、踏みとどまって、見届ける」のは患者に接するときの精神科医としての姿勢だということでした。

 

 この態度は、信仰者としての心得でもあると思います。

 

 今年は年明けから能登半島の地震、羽田空港での飛行機の衝突など、災害、事故などがありました。被災した方々のために共に祈りましょう。