ルカによる福音

13・1ちょうどそのとき、何人かの人が来て、ピラトがガリラヤ人の血を彼らのいけにえに混ぜたことをイエスに告げた。2イエスはお答えになった。「そのガリラヤ人たちがそのような災難に遭ったのは、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い者だったからだと思うのか。3決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。4また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。5決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」

6そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。7そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』8園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。9そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」

 

 想定外の人災や天災で被害に遭ったとき、その被害者や、係累の罪の罰だと考えるのはユダヤ教でも一般的だったようです。

 

 そうした呪術的な思考方法では、イエスの十字架の神秘を理解することはできません。イエスの生きておられたパレスチナだけでなく、現代の日本でも呪術的思考はわたしたちの考えを支配しています。なんか悪いことが起こると、これは何のたたりだろうかと思ってしまう人は意外に多いように思います。

 

 イエスが悔い改めよというのは自分の悪い行いを反省せよといっているのではなく、心をいのちの与え主である神に向け変えて、生き方全体を変えよといっていると受けとめたいです。