マタイ福音書 5:1-11

〔そのとき、〕イエスは群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。

「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。

柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ。

義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。

憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける。

心の清い人々は、幸いである、その人たちは神を見る。

平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。

義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。

わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。」

 

教会のカレンダーでは11月1日は諸聖人の祝日で、11月2日は死者の日となっています。また、一宮教会では、11月3日10時から記念堂慰霊祭のミサが行われます。

 

今日の第一朗読は「ヨハネの黙示録」、第二朗読は「使徒ヨハネの手紙」、福音は「マタイ福音書」の山上の教えです。

 

女子パウロ会のホームページ「ラウダーテ」では、今日の典礼について次のように解説しています。

 

「典礼暦年の最後の月に祝う“諸聖人”の祭日は、主の再臨とキリストの輝かしい完成を思い起こさせる日です。それは、キリスト者が死のかなたの命への希望に生きるように励ましてくれるためであり、また、目にみえない世界に入ったすべての人との連帯を意識する日でもあるのです。」

 

 今日の福音はイエスの山上の説教の冒頭です。イエス様は普通ならとてもしあわせだとは思えない人たちのことをしあわせだと言います。どうしてでしょうか。

 

 貧しい人たちや辛い思いをしている人に、傍観者の立場であなたたちは幸いだといったら「おまえに何が分かるか」と怒られそうです。イエスは一体どのような仕方でこの言葉を語られたのでしょうか。

 

 イエスはご自分の言葉に耳を傾ける人々と同じ身なりで山上の説教を語ったのだと思います。そしてイエスこそ、心底貧しく、死別の哀しみに泣き、抑圧に屈せず、解放に飢え渇き、人の痛みに共苦し、神のみことばに心を澄ませ、平和のためにはたらき、迫害を受けられました。

 

今日の福音をフランシスコ会の本田神父は次のように訳しています。

 

イエスは、この民衆を見て、山のほうにのぼって行き、そこに腰をおろすと、弟子たちがそばに寄って来た。そこでイエスは口を開き、真実をときあかした。「心底貧しい人たちは、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。死別の哀しみにある人は、神からの力がある。その人は慰めを得る。抑圧にめげない人は、神からの力がある。その人は地を受けつぐ。解放に飢え渇いている人は、神からの力がある。その人は満たされる。人の痛みが分かる人は、神からの力がある。その人は自分の痛みを分かってもらえる。心を澄ませている人は、神からの力がある。その人は神を見る。平和のために働く人は、神からの力がある。その人は神の子と呼ばれる。解放をこころざして迫害される人たちは、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。わたしのことで、人々があなたたちを非難し、迫害し、偽りをもってあらゆる脅しをかけるとき、あなたたちは神からの力をうけるのだ。喜びなさい、うれしく思いなさい。天には大きなむくいがある。」

 

 本田神父は、「さいわいである」を「神からの力がある」と翻訳しています。何度も「神からの力がある」とイエスが繰り返すのは、ご自分が「神からの力」によって生きておられたからこそです。

 

諸聖人とはイエスの後に続き、「神からの力」によって生きた方々のことではないでしょうか。彼らはイエスと共に歩み、死に、復活のいのちに生きています。

 

わたしたちは「神からの力」に支えられていのちをかけて信仰を証しした方々の血と涙と汗で、信仰を伝えて頂きました。信仰の遺産を受け継いだわたしたちも自分の血と涙と汗で信仰を伝える使命があります。