マタイによる福音 18:1-10

〔そのとき、〕弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。」

 

「だれが、天の国でいちばん偉いのか」という質問は、「だれが、弟子たちの中でいちばん偉いのか」という仲間争いを背景にしています。この話のすぐ後にペトロが「主よ、兄弟がわたしに対して罪を犯したなら、何回赦すべきでしょうか。七回までですか。」とイエスに尋ねています。

 

イエスの最初の追随者たちから、現代の教会に至るまで、「自分たちの中でいちばん偉いのは誰か」ということが共同体の対立・分裂を生んでいます。

 

弟子たちに対して「心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と諭します。この言葉は「子供のように純真にならなければ」と受けとめられがちですが、わたしはそうではないと思います。子供は一人では何もできず、生き延びるためには大人の力を必要とする無力な存在です。「子供」という言葉で弟子仲間の中で世話のかかる面倒な人のことをイエスは指していたのだと思うのです。後にパウロは体のたとえの中で次のように語ります。

 

「神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。」(1コリント12:18-22)

 

女子パウロ会ホームページに守護の天使への祈りが掲載されています。

https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycle0/mem1002.php