マルコによる福音 13:33-37
〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕33 「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。34 それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。35 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。36 主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。37 あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」
教会暦は待降節第一主日から始まり、王であるキリストの祝日で終了します。そして、王であるキリストの聖書朗読と待降節第一主日の聖書朗読には、共通点があります。それは終末、つまり神の救いの完成の時をめぐってのことです。
さて、待降節の聖書朗読は降誕節、四旬節、復活節同様、三つの朗読箇所が一つのテーマで関連づけられています。そして、本日のテーマは「待つ」ことであることが分かります。
第一朗読はイザヤ書です。バビロン捕囚から解放されて帰還は果たしたものの、厳しい現実に失望し、神への信頼を失い、気ままに生きようとするイスラエルの民にイザヤは神への信頼を説きます。わたしたちは「あなたを待つ者」ですが、この「待つ」とは「他に可能性がない状況で、それをためらいながらも待つ」という意味です。期待した救いがもたらされないのは「わたしたちが罪を犯したから」と告白するイザヤは、神こそ「わたしたちの贖い主」と信じ、神が「天を裂いて降って」くださるよう祈ります。
マルコ福音書13章では、エルサレム神殿の崩壊や世の終わりの様子をイエスが預言しています。本日の朗読箇所は「小黙示録」と言われる結びの部分です。冒頭の33節の「気をつけて」と訳されているギリシャ語は「ブレポー」で、「みる」という動詞です。そこから「注意する」、「警戒する」、「気がつく」、「分かる」と新共同訳では翻訳されています。
本日の福音は三つの段落に分かれています。
第一段落は33節です。「目を覚ましていなさい」とあるだけです。悪が支配する闇が終わり、救いの太陽が昇る朝が近づいているので目を覚ますように促しています。
第二段落は34節です。目を覚ましていなければならない理由を説明するたとえです。「旅に出る人」とは天に戻ったイエスであり、「僕たち」とか「門番」は弟子たちを意味します。門番の役割が主人の帰りを目を覚まして待つことであるように、弟子たちの使命はイエスの到来を目を覚まして待ち続けることです。
第三段落は35節から37節です。この段落は第一段落に対応していますが、ここで強調されているのは、主人の帰宅時間がいつなのかは分からないということを強調するためです。
初代教会では、イエスが今すぐにでも再臨すると思い込み、自分の務めをおろそかにして熱狂する人々や、イエスが期待通りに再臨しないことで落胆し、希望を失う人々がいたようです。こうした事情がマルコ13章のイエスの言葉の背景にあるのではないでしょうか。
ひとこと
待降節という日本語は救い主の訪れをわたしたちが待つというニュアンスがあります。しかし、哲学者の鷲田清一先生は、『「待つ」ということ』という本の中で、わたしたちの社会が「待たない社会」、「待てない社会」になっていることを指摘して次のように述べています。
「意のままにならないもの、どうしようもないもの、じっとしているしかないもの、そういうものへの感受性をわたしたちはいつか無くしたのだろうか。偶然を待つ、じぶんを越えたものにつきしたがうという心根をいつか喪(うしな)ったのだろうか。時が満ちる、機が熟すのを待つ、それはもうわたしたちにはあたわぬことなのか……。」
イエスは放蕩息子の帰りを待ちわびる父親のたとえを話します(ルカ15章)。わたしたちが父である神を待っているのではなく、父である神がわたしたちを待っていてくださるとイエスは言います。
神が待っていてくださることを信じて、目覚めて生きることができますように。