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 敬愛する金壽煥枢機卿は、1922年5月8日に日本統治時代の朝鮮の大邱で8番目の子供として生まれました。1941年から1944年まで日本の上智大学で哲学を学び、その間に徴兵されて日本軍の任務に就きました。1947年から1951年まで韓国天主教大学で哲学の勉強を続け、1957年から1964年までドイツのミュンスター大学で神学及び社会学を学びました。
 
 その後1951年9月15日に司祭に叙階され、1966年2月15日に馬山教区司教に任命されました。教皇パウロ6世は1968年にソウル大司教区大司教に挙げました。大司教就任演説で、彼は大韓民国のカトリック聖職者たちに「尊大にならず、社会に溶け込み」かつ貧しい人や社会に奉仕する教会になるよう呼びかけました。

 1969年4月28日、パウロ6世は彼を僅か46歲で枢機卿の位に挙げ、その他にも平壤教区の教皇庁代理を兼任させました。彼は韓国初の枢機卿である外に、当時時ローマカトリック內で最年少の枢機卿でした。1970年代から1980年代にかけて、韓国が独裁体制を取っている間に人権の守護者となり、そのため多くの韓国人は彼を人権及び民主主義の守護者と讃えました。1990年代には、韓国での反米親北の傾向を憂い、北朝鮮の人権及び体制に注意を払う必要性を表明しました。
 
 1984年わたしがソウルに留学したとき滞在先の教会を紹介して下さり、1986年留学終了のご挨拶をしたときには、韓国語で「よく勉強しました。日本の韓国人のために尽くして下さい」と激励して下さいました。

 1998年に開催したアジア司教会議特別大会では、3人の主席の代表の1人に選ばれました。同年4月3日に正式にソウル大司教区大司教及び平壤教区教皇庁代理の職務を辞任しました。

 引退したのちも恵花洞にある、ソウルカトリック神学大学の一角にある住居に住み、若い司祭たちと一緒に祈り、語り合っているとわたしに話してくださいました。
 
 80年代の大学闘争の時には活動圏の学生を明洞教会境内地にかくまい、戦闘警察の境内地侵入を阻止しました。この頃から不眠症で悩まれ、ときどき、お忍びで日本に来られて休まれました。何度がそのお世話をさせて頂きました。
 
 大聖年の、2000年8月に名古屋教区の高校生たちをソウルに連れて行ったときには、直接日本語で高校生たちに語り、平和の種を蒔くようにと諭しました。

 2003年1月5日には名古屋在住の韓国人の中高生8名と一緒に居室横のチャペルでミサをして下さり、「わたしはあなたがたにお年玉をあげます。それはイエス様です。イエス様と共にいるならどんなに苦しく、辛いときも乗り越えることができます。皆さん生涯イエス様と共に生きましょう」と信仰に生きるように説かれました。

 2008年、体の衰弱で入院し、同年10月初めには呼吸困難になり、重態になりました。翌年2月15日には、突然肺炎の症状を起こし、午後に病情は更に悪化しました。2009年2月16日、夕方の6時12分にソウル大司教区の江南聖母病院で帰天されました。享年86歲でした。最後に「ありがとうございます、愛し合いましょう」という言葉を残しました。

 金寿煥は1989年に臓器移植同意書に署名していましたので、同日夜の7時20分に眼球の移植手術を2人の病人に行い、その後亡骸はソウル明洞聖堂に移されました。この後、4日間で約40万人もの群集が教会まで弔問に訪れました。葬儀は同月20日明洞カテドラルで行われ、その後、龍仁カトリックソウル大教区聖職者陵園内に葬られた。

 2009年のお葬式の時にパスポートが切れていて参列できませんでしたが、この度のソウル旅行で、やっとお墓参りができました。枢機卿様のお墓には平日であるにも関わらず多くの韓国人信者たちが大小のグループで祈りを捧げたり、聖歌を歌っていました。
 
 11月の死者の月に、私の司祭職の方向性に甚大な影響を与えてくださった。金枢機卿の墓前で過ごすことができました。良い旅でした。
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