第一朗読 イザヤ書43:16-21
「この民をわたしのために造った」という表現はオリエントの神々が自分の奴隷として人間を造ったという意味ではありません。主である神は、民をバビロニアから脱出させ、解放します。主である神がモーセを通してイスラエルの民をエジプトから、イスラエルの民が神の前に正しく、優れていたからではありません。むしろ、「民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出3:7)からです。その神がバビロニアで捕囚の身となっている民を脱出させます。神の無償の恵みでバビロニアから神の手によって脱出する民は、自分たちの栄誉ではなく、主である神の栄誉を全人類に語る使命を受けます。
第二朗読 フィリッピの信徒への手紙3:8-14
パウロは律法や社会的規範を遵守することによって得られる人間の義ではなく、「信仰に基づいて与えられる神の義」を知らされました。信仰とは、神がキリストを通して人間に差し出した救いを恵みとして受け入れることです。彼は正しいことを行っていると信じてキリスト者を迫害していた最中に、ダマスコで「サウル、サウル」と呼びかけるキリストに出会ったことによって、神の義を知りました。ダマスコでの回心は、彼の努力の結果ではなく、イエスの一方的なイニシアティブによって生じた出来事でした。
人が義とされるのは、自分の努力や善業によってではなく、神の無償の恵みによるのです。そのことに気づくとき、大きな喜びに満たされ、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」人生が始まります。
主はこう言われる。 海の中に道を通し 恐るべき水の中に通路を開かれた方 戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し 彼らを倒して再び立つことを許さず 灯心のように消え去らせた方。 初めからのことを思い出すな。 昔のことを思いめぐらすな。 見よ、新しいことをわたしは行う。 今や、それは芽生えている。 あなたたちはそれを悟らないのか。 わたしは荒れ野に道を敷き 砂漠に大河を流れさせる。 野の獣、山犬や駝鳥もわたしをあがめる。 荒れ野に水を、砂漠に大河を流れさせ わたしの選んだ民に水を飲ませるからだ。 わたしはこの民をわたしのために造った。 彼らはわたしの栄誉を語らねばならない。第二イザヤはバビロニアに囚われているイスラエルの民に向かって解放の時が近いことを預言します。この預言でも水の中をくぐって死からいのちへと過ぎ越した出エジプトの出来事に触れていますが、あえてそのことを思い出すなと言います。何故なら過去のこととは比較にならない全く新しいことを主である神が行われるからです。
「この民をわたしのために造った」という表現はオリエントの神々が自分の奴隷として人間を造ったという意味ではありません。主である神は、民をバビロニアから脱出させ、解放します。主である神がモーセを通してイスラエルの民をエジプトから、イスラエルの民が神の前に正しく、優れていたからではありません。むしろ、「民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」(出3:7)からです。その神がバビロニアで捕囚の身となっている民を脱出させます。神の無償の恵みでバビロニアから神の手によって脱出する民は、自分たちの栄誉ではなく、主である神の栄誉を全人類に語る使命を受けます。
第二朗読 フィリッピの信徒への手紙3:8-14
そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています。キリストを得、キリストの内にいる者と認められるためです。わたしには、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります。わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。 わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、わたし自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです。パウロは本日の朗読箇所の直前でキリストを信じるようになる前の自分の有様を回送しています。割礼を受け、律法に熱心なファリサイ派の一員であったことなど、当時のユダヤ社会では有利であったと思われるすべてのことが、キリストのゆえに損失と見なすようになったとパウロは言います。それは「主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさ」によると彼は言います。
パウロは律法や社会的規範を遵守することによって得られる人間の義ではなく、「信仰に基づいて与えられる神の義」を知らされました。信仰とは、神がキリストを通して人間に差し出した救いを恵みとして受け入れることです。彼は正しいことを行っていると信じてキリスト者を迫害していた最中に、ダマスコで「サウル、サウル」と呼びかけるキリストに出会ったことによって、神の義を知りました。ダマスコでの回心は、彼の努力の結果ではなく、イエスの一方的なイニシアティブによって生じた出来事でした。
人が義とされるのは、自分の努力や善業によってではなく、神の無償の恵みによるのです。そのことに気づくとき、大きな喜びに満たされ、「後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」人生が始まります。
ヨハネによる福音8:1-11
彼らは姦通の現場で取り押さえられた女をイエスのところに連れて来ました。律法によると姦通は既婚女性の不貞のことで、石打の刑ということが決まっていたにも拘わらず、あえてイエスに質問するのは、イエスが人々に説いていた罪人への愛とあわれみを否定するか、律法を公に否定するかを見るためでした。
この罠に対してイエスは答えの代わりに、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言い放ちます。これを聞いた人々は年長者から始まっていなくなり、イエスと女性だけが残されます。この婦人に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と宣言します。
人は誰しも生きている限り罪とは無縁にはなりませんが、イエスと出会うことによって、罪のゆるしを宣言されます。その結果、罪ではなくイエスを着るものとなるのです。私たちの罪はイエスの前で、ゆるしと恵みに出会う機会となります。
この婦人のその後がどの様になったのか、ヨハネ福音書には書かれていません。イエスによってゆるしを宣言されたとは言え、この婦人はこの町で住むことはできなくなったと思われます。この婦人もまたイエスに付き従った一人になったのかも知れません。自分の罪によって引き起こされた現実がきっかけになって、イエスに付き従う生活が始まったのです。
アウグスティヌスは「ああ、幸いなるかな罪」とイエスに出会える機会となった自分の罪について告白しています。
来週から聖週間です。
イエスはオリーブ山へ行かれた。朝早く、再び神殿の境内に入られると、民衆が皆、御自分のところにやって来たので、座って教え始められた。そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、真ん中に立たせ、イエスに言った。「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか。」イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。これを聞いた者は、年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。イエスは、身を起こして言われた。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか。」女が、「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」律法学者やファリサイ派の人々は、律法の遵守こそ神の前に義とされることだと信じ、他人にもその遵守を要求しました。ところがイエスは神の愛とゆるしは律法の遵守によってもたらされるのではないことを言葉と力あるしるしであかししていました。イエスが果たして誰なのかをめぐって、群衆の中には対立が生じます。律法学者やファリサイ派の人々がイエスを訴える口実を捜していたところ、ちょうどうってつけの事件が起きました。
彼らは姦通の現場で取り押さえられた女をイエスのところに連れて来ました。律法によると姦通は既婚女性の不貞のことで、石打の刑ということが決まっていたにも拘わらず、あえてイエスに質問するのは、イエスが人々に説いていた罪人への愛とあわれみを否定するか、律法を公に否定するかを見るためでした。
この罠に対してイエスは答えの代わりに、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言い放ちます。これを聞いた人々は年長者から始まっていなくなり、イエスと女性だけが残されます。この婦人に向かって、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と宣言します。
人は誰しも生きている限り罪とは無縁にはなりませんが、イエスと出会うことによって、罪のゆるしを宣言されます。その結果、罪ではなくイエスを着るものとなるのです。私たちの罪はイエスの前で、ゆるしと恵みに出会う機会となります。
この婦人のその後がどの様になったのか、ヨハネ福音書には書かれていません。イエスによってゆるしを宣言されたとは言え、この婦人はこの町で住むことはできなくなったと思われます。この婦人もまたイエスに付き従った一人になったのかも知れません。自分の罪によって引き起こされた現実がきっかけになって、イエスに付き従う生活が始まったのです。
アウグスティヌスは「ああ、幸いなるかな罪」とイエスに出会える機会となった自分の罪について告白しています。
来週から聖週間です。
洗礼志願者への按手と祈り
主イエス・キリスト、あなたは罪を犯した一人の女をゆるし、新しい生き方に導いてくださいました。洗礼の泉に近づき、いのりの糧を臨む洗礼志願者を聖霊で満たし、信じる心を強めてください。あなたに従う生活を通して、神との交わりを深めることができますように。アーメン。
ひとこと
今日は信友会の日です。韓国殉教福者会のシスターの弟の神父様が韓国から訪問されるので、神父様にミサの司式と説教をお願いしました。また、復活徹夜祭に布池教会で洗礼を受ける3人の韓国人の兄弟姉妹の洗礼志願式も予定されています。信仰の輪が広がることは本当に恵み深いことだと思います。