第一朗読 ヨシュア記 5:9-12
やがてキリスト教の初代教父たちはこの出来事をキリスト教の洗礼・聖体の前表と考えるようになりました。解説書には次の様にあります。
洗礼によって洗われ、「酵母を入れないパンで」養われる者は、神と共に生きる地の獲得を目指して、神の指示に身を委ねます。
〔その日、〕主はヨシュアに言われた。「今日、わたしはあなたたちから、エジプトでの恥辱を取り除いた。」 イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。ヨシュア記の1-4章ではモーセの後を継いだヨシュアが民を率いてヨルダン川を渡る出来事が描かれます。3章16節にはヨルダン川を渡るとき川の水が「壁のように立った」とありますが、これは出エジプトの「水はせき止められ流れはあたかも壁のように立ち上がり」(出15:8)と同じ様子です。つまり荒れ野の旅への始まりと終わりに、同じ出来事が現れたことになります。ヨルダン川を渡った後、約束の地での生活の初めにイスラエルの人々は過越祭を祝います。その過越祭の翌日、土地の産物を「酵母を入れないパン」して食べ、荒れ野で食べていたマナはなくなります。
やがてキリスト教の初代教父たちはこの出来事をキリスト教の洗礼・聖体の前表と考えるようになりました。解説書には次の様にあります。
洗礼によって洗われ、「酵母を入れないパンで」養われる者は、神と共に生きる地の獲得を目指して、神の指示に身を委ねます。
第二朗読 2コリント5:17-21
崩れていた神との関係はキリストを通して神によって新たな創造の力によって、以前の関係を遙かに超える「神の義」による新たな関係が始まります。
ある人が弟と兄は現れ方が違うが、父親から離れているということでは同じだと言いました。父親の喜びを兄は受け入れることができません。自らの正しさにこだわり、父親の思いからへだたっているからです。
〔皆さん、〕キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。これらはすべて神から出ることであって、神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、神がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。神と和解させていただきなさい。罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました。わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです。17節に二度現れる「新しい」と言う言葉は決して古びることのない新しさです。その新しさは「キリストと結ばれる」ことによって生じる新しい創造です。この創造は神がキリストを通してわたしたちをご自分と和解させたことによって生じます。私たちの努力や功績によってではなく、キリストによって無償で神と和解させて頂いたのです。ここに神の義があるとパウロは言います。「和解」とは普通、当事者双方が交渉によって争いをやめることです。しかしこの和解は、神がキリストの死と復活を通して一方的に差し出した和解です。
崩れていた神との関係はキリストを通して神によって新たな創造の力によって、以前の関係を遙かに超える「神の義」による新たな関係が始まります。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったことを、神は御自分を愛する者たちに準備された」(1コリ2:9)福音朗読 ルカ15:1-3, 11-32
〔そのとき、〕徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た。すると、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言いだした。そこで、イエスは次のたとえを話された。 「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」本日の福音は「放蕩息子」の物語として広く知られているものですが、読めば分かるとおり、中心は息子にあるのではなく父親にあります。この物語で飢え死にしそうになった弟は「罪を犯した」と認めます。その罪とは何でしょうか。罪を私たちは掟を破ることのように受け止めることが多いのですが、罪には根源的な深さがあります。解説書によると、
「飢え死にしそう」の元の言葉は「アポッリューミ」(滅びる)という動詞で、何とルカ15章では8回も用いられています。「見失った羊」のたとえでは「見失う」と訳され、「無くした銀貨」のたとえでは、「無くした」と訳されています。「放蕩息子」のたとえでは「死にそうになる」の他に、「いなくなっていた(のに見つかった」(24、32節)と訳されています。この息子は、人間が本来あるべき神の前から「いなくなっていた」のです。それが彼が犯した「罪」です。とあります。人間が本来あるべき神との関係から逸脱することが罪であり、その結果いのちの与え主との紐帯を失い、滅びることになるのです。父親から遠く離れた弟は「放蕩の限りを尽くし」たとありますが、その直訳は「生きる可能性もなく生きて」となります。いのちの源である神から離れた生き方こそ、生きる可能性のない生き方、不条理であり、罪なのです。失意のどん底で、故郷に帰る弟を見つけた父親は「憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻し」ました。「憐れに思い」と訳されるギリシャ語は「スプランクニゾマイ」独特の動詞で、福音書では、イエスか神、またイエスのたとえに登場する神以外には使われません。「断腸の思いで」と訳すこともできます。
ある人が弟と兄は現れ方が違うが、父親から離れているということでは同じだと言いました。父親の喜びを兄は受け入れることができません。自らの正しさにこだわり、父親の思いからへだたっているからです。
神から離れ、滅びの道を歩んでいることに気づき、今日という日に父である神に立ち戻る恵みを神ご自身から頂く事ができますように。
解放を求める祈り いつくしみ深い神よ、あなたはキリストをとおして愛とゆるしを与え、すべての人が神に立ち返るよう招いてくださいます。秘跡によってあなたの子とされることを望む洗礼志願者を顧み、罪の重荷と悪のきずなから解放してください。いつも平和と喜びの内にあなたに仕え、永遠に賛美と感謝をささげることができますように。私たちの主イエス・キリストによって。アーメン。