第一朗読 知恵7:7-11
わたしは祈った。すると悟りが与えられ、
願うと、智恵の霊が訪れた。
わたしは知恵を王笏や王座よりも尊び、
知恵に比べれば、富も無に等しいと思った。
どんな宝石も知恵にまさるとは思わなかった。
知恵の前では金も砂粒にすぎず、
知恵と比べれば銀も泥に等しい。
わたしは健康や容姿の美しさ以上に知恵を愛し、
光よりも知恵を選んだ。
知恵の輝きは消えることがないからだ。
知恵と共にすべての善が、わたしを訪れた。
知恵の手の中には量り難い富がある。
「知恵の書」は紀元前1世紀にディアスポラ(パレスチナを離れて住むユダヤ人)の町アレキサンドリアでギリシャ語で書かれた書物です。本日の箇所は知恵の本質についてソロモンが語るという場面設定になっています。ソロモン王の即位に当たって、主である神が「何事でも願うがよい。あなたに与えよう」とソロモン王が民を治めるために「聞き分ける心をお与えください。」と願うと、主である神が「あなたに知恵に満ちた賢明な心を与える。」宣言し、ソロモン王は知恵に満たされました(列王記上3:5-12参照)今日の知恵の書はこのことが背景になっています。「王笏・富・健康・容姿の美しさ」は古今東西幸せの条件だと思われています。しかし、それらはいずれも極めて失われやすいものです。また人は所有するものに支配されるという観点からは、「王笏・富・健康・容姿の美しさ」に支配され、その奴隷となる危険もあります。これに対し神の知恵は、すべてを造り治めるる神の英知であり、それに与ることは永遠のいのちに通じるのです。私たちが価値の基準をどこに置くかによって、欲の奴隷となるか、神の知恵に満ちた者となるかが決まります。

第二朗読 ヘブライ4:12-13
というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。
ヘブライ書の著者は「神の言葉は生きて」いると言います。神はみ言葉ですべてをお創りになったと旧約聖書の民は信じていました。神のことばは二つの仕方で書かれています。一つは文字となった聖書において、もう一つは現実の世界の出来事に置いてです。神がすべてのものをみ言葉によって存在させ、生かしておられるとすれば、この神から離れることは非存在の深淵にさらされることであり、まさにいのちを絶たれることになります。人間はうわべを取り繕ってその場しのぎをすることがありますが、その人間のいのちそのものを与え続ける神の前ではすべてが明らかです。神の目には「すべてのものが裸であり、さらけ出されている」からです。

福音朗読 マルコ10:17-30
 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」
 「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」という問いはこの青年ばかりでなく、すべての人に共通の心配事ではないでしょうか。この青年に対してイエスはモーセの律法の遵守を説きますが、青年は「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えます。「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とありますが、「慈しむ」と訳されているもとの言葉は「アガパオー」というギリシャ語で「愛する」という意味です。この言葉は「わたしがあなた方を愛したように、あなたがたは互いに愛し合いなさい」というイエスの掟で使われている言葉と同じ言葉です。
「行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい。」というイエスの言葉を聴いた青年は、気を落とし、悲しみながら帰って行きました。多くの財産を持っていたからです。
イエスは青年に特別厳しい悪い要求をしたわけではありません。イエスはいつも弟子をこのようにお呼びになるのです。
イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。(マルコ1:16-18)
 青年が去った後イエスは「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」と言います。この言葉はキリスト教でない人にもよく知られている言葉です。
 イエスの言葉を聴いた弟子たちが、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合うと、イエスは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と言われました。
 この部分はとても大切な箇所だと思います。「何をすれば永遠の命を得ることができるか」という問いかけは、ある人間の立派な行い、善業によって永遠の命を受け継ぐことができるのではないかという考えが背景にあります。これに対してイエスは永遠の命は人間が努力して得られるようなものではなく、ただ神の無償の恩恵によることを明らかにしたと理解することもできます。
 イエスご自身が、ご自分の持っておられるすべてを捧げて、裸で十字架につけられました。私たちのためにすべてを捧げ尽くす愛によって、私たちは永遠の命を受け継ぐ者となりました。今日わたしにもイエスは、「あなたもわたしがあなたのためにすべてを捨てたように、すべてを捨てて、わたしに従いなさい」と招いておられます。

ひとこと
 レオ=レオニの『せかいいち おおきな うち』という絵本があります。カタツムリの話ですが「世界一大きい家」を造ろうとして奮闘努力してついに巨大な家を造るのに成功しましたが、余りに大きくて動けなくなり、食べることもできなくなってやせ細って消えてしまします。巨大な家だけを残して、でもそれも次第に壊れていき、後には何も残らなかったという話です。
 ペトロや他の弟子たちはイエスの招きにすぐに応え、生活の糧を得ていたものをその場において従いました。もちろんこれは弟子たちの決意の表れと見ても良いのですが、一つには持っているものが少なかったからだとも言えます。
 ちょっとしかものを持たない人は概して気前よく自分の持ち物を分け与えますが、多く持てば持つほど手にした金やものが失われないように用心深くなるような気がします。イエスの弟子に求められている身軽さはやがて死ぬことを忘れない(メメント・モリ)知恵ではではないでしょうか。