第一朗読 箴言9:1-6
知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。
獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え
はしためを町の高い所に遣わして
呼びかけさせた。
「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。」
意志の弱い者にはこう言った。
「わたしのパンを食べ
わたしが調合した酒を飲むがよい
浅はかさを捨て、命を得るために
分別の道を進むために。」
 「箴言」は格言集です。古今東西どの様な民族にも教訓物語や格言集、金言集のようなものがあります。旧約聖書にもそうしたものがあり、それは「知恵文学」と呼ばれます。「知恵文学」としてあげられるのは「箴言」のほか「ヨブ記」、「コヘレトの言葉」や「知恵の書」などが含まれますが、中でも「箴言」は王政時代に溯る資料を含んでおり、旧約の人々の「知恵」を知るうえで貴重な文書だと言われています。
 さて本日の箇所は9章の始めの部分ですが、9章全体は1節~6節の知恵の勧め、7節~12節の格言集、13節~18節の愚かな女という三部構成です。
さて、知恵も愚かな女も同じ言葉で人々に呼びかけます。
「浅はかな者は誰でも立ち寄るがよい。」意志の弱い者にはこう言った(こう言おう)。
違いはその話の内容です。
「わたしのパンを食べ、わたしが調合した酒を飲むがよい。浅はかさを捨て、命を得るために、分別の道を進むために。」
と知恵が言うのに対して、愚かな女のいうことは、
「盗んだ水は甘く、隠れて食べるパンはうまいものだ。」

箴言は続いて愚かな女の後にしたが運命を次のように言います。
「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる。」

格言の真ん中10節に次の言葉があります。
主を畏れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは分別の初め。
主である神を畏れ、聖なる方に出会い、知恵に従って歩んでいきたいものです。

第二朗読 エフェソ5:15-20
愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい。
パウロは17節で「無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。」とエフェソの教会の人々に勧めます。「無分別な者」はギリシャ語では「アフローン」といい思慮の欠けたという意味です。ギリシャ語訳旧約聖書の中では「神に逆らう愚か者」という意味でよく用いられていると解説されています。キリストによって新たに生まれた者は、賢い者として生きるよう求められます。それは具体的にどの様に生きることでしょうか。

まず第一に挙げられるのは「時をよく用いること」です。キリスト者の賢さは、世知にたけることではありません。キリスト者が求められているのは、主のみこころを理解する「賢さ」です。また、酒に酔いしれるのではなく、霊に満たされることです。キリストの霊に満たされて、互いに語り、歌って、賛美し、感謝することがキリスト者の生き方だとパウロは説きます。

福音朗読 ヨハネ6:51-58
わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
イエスは「天から降ってきたパン」について語って来ましたが、今日の福音では、それは比喩ではなく現実のことであることが強調されます。イエスのパンとはイエスの肉であり、血なのです。つまりイエスの「肉を食べ、血を飲む」ことが永遠の命への道であることが明らかにされます。イエスの神秘を悟らない群衆は、このイエスの言葉につまずきます。

ここで、ヨハネは「食べる」という動詞を二つ使います。一つは一般的な「食べる」(エスシオー)ですが、もう一つは「かじる、音を立てて食べる」を意味するトローゴーです。53節以前はエスシオーをヨハネは使っていますが、54節以降はトローゴーを使います。ヨハネがこの言葉をあえて用いたのは、イエスの肉と血を聖体(聖餐)の形で実際に「食べる」ことに焦点を合わせたかったからだと言われています。

神のみことばであるイエスは、ご自身の「肉と血」を差し出すことによって、信じる者の中に「いのち」を実現させます。

普通食物は食べると消化され、食べた人の体の構成要素となります。イエスのパンは食べると私たちがイエスのからだに同化され、キリストの肢体となります。キリストにしっかりとつながっていれば、キリストの持っておられる永遠の命に与ることになります。

主よあなたのパンを頂き、あなたのいのちにつながれて、あなたの愛を周りの人に伝えていく道具となることができますように。