ただ、主に信頼して聴き従うこと

カトリック教会では、四旬節や復活節、待降節や降誕節のことを特別の意味合いをこめて季節と呼びます。そして、この季節の間は三つの朗読が一つのテーマのもとに選ばれます。年間の場合には第1朗読と福音書の朗読が共通のテーマで選ばれ、第2朗読は準継続朗読となるのに対して、季節の朗読は朗読全体であるメッセージを伝えようとしています。

四旬節は洗礼志願者のための清めと照らしの典礼が行われますが、同時にすでに洗礼を受けた信者たちの回心と悔い改めの時期でもあります。

神への信仰を新たにし、神に立ち戻るこの時期、聖書朗読は信仰をテーマにしていると言えます。
第1朗読(創世記22:1-2,9a,10-13,15-18)
 〔その日、〕神はアブラハムを試された。
 神が、「アブラハムよ」と呼びかけ、彼が、「はい」と答えると、神は命じられた。
 「あなたの息子、あなたの愛する独り子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。わたしが命じる山の一つに登り、彼を焼き尽くす献げ物としてささげなさい。」
 神が命じられた場所に着くと、アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ〔た。〕そしてアブラハムは、手を伸ばして刃物を取り、息子を屠ろうとした。
 そのとき、天から主の御使いが、「アブラハム、アブラハム」と呼びかけた。彼が、「はい」と答えると、御使いは言った。
 「その子に手を下すな。何もしてはならない。あなたが神を畏れる者であることが、今、分かったからだ。あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」
 アブラハムは目を凝らして見回した。すると、後ろの木の茂みに一匹の雄羊が角をとられていた。アブラハムは行ってその雄羊を捕まえ、息子の代わりに焼き尽くす献げ物としてささげた。
 主の御使いは、再び天からアブラハムに呼びかけた。御使いは言った。
 「わたしは自らにかけて誓う、と主は言われる。あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう。あなたの子孫は敵の城門を勝ち取る。地上の諸国民はすべて、あなたの子孫によって祝福を得る。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」
 神からようやく授かったひとり子イサクを焼き尽くす捧げ物とするようにと神がアブラハムに求める物語は、何を意味しているのでしょうか。
 わたしが手にしている解説書には、「我々は人生の途上で、簡単には受け入れがたい不条理に遭遇することがあります。アブラハムのこの物語は、このような不条理に見舞われた者の血みどろの格闘の中で生み出されたものかもしれません。そうであれば、神への信仰を揺るがしかねない不条理をどのように見るべきなのか、それが主題とされていると言えます」とありました。
 不条理はその受け止め方で、神への信仰を失う誘惑にも、神への信仰を精錬する試練にもなります。
不条理に見舞われたとき、人にできることは、ひたすら神の助けを信じて、アブラハムと共に苦しむことしかありません。
第2朗読(ローマ8:31b-34)
〔皆さん、〕もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか。だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。
パウロの手紙には、三度「だれが……できますか」という修辞疑問文が現れます。
だれがわたしたちに敵対できますか。
だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。
だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。
パウロはイエス・キリストを信じる、信仰の故に苦しむローマの信徒を激励します。信仰のために捉えられ、拷問を受け、殉教することがあったとしても、希望を持ち続けることができるのは、神がわたしたちの味方だからです。その神は「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方」です。
「あなたは、自分の独り子である息子すら、わたしにささげることを惜しまなかった。」と第一朗読にある「惜しむ」のギリシャ語と同じ単語をパウロは使っています。
神はアブラハムにイサクを捧げることをやめさせましたが、その神ご自身はわたしたちのために独り子イエスを惜しまず死に渡されました。
この神こそ、わたしたちを義とし、神の右に座している復活のキリストがわたしたちのためにとりなしてくださるのです。
福音朗読(マルコ9:2-10)
 〔そのとき、〕イエスは、ただペトロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなった。エリヤがモーセと共に現れて、イエスと語り合っていた。ペトロが口をはさんでイエスに言った。「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」ペトロは、どう言えばよいのか、分からなかった。弟子たちは非常に恐れていたのである。すると、雲が現れて彼らを覆い、雲の中から声がした。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。
 一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまでは、今見たことをだれにも話してはいけない」と弟子たちに命じられた。彼らはこの言葉を心に留めて、死者の中から復活するとはどういうことかと論じ合った。
マルコ福音書は16章からなる福音書です。朗読箇所はマルコ福音書全体の中間に位置します。「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声が、雲の中から弟子たちに聞こえました。この言葉は、マルコ福音書1章でイエスが洗礼を受けたとき、天が裂けて霊が鳩のように降るのをご覧になったとき、耳にした、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声と同じものです。洗礼のときにイエスがお聴きになった声を、今度は弟子たちが聞きます。
しかし、弟子たちはイエスの姿が変えられたことも、「これはわたしの愛する子。これに聞け。」という声の意味も分からず、恐怖に捕らえられます。それは彼らがイエスの受難を恐れているからです。
今、弟子たちに必要なことは、神が愛する子イエスに聴き従うことなのです。
弟子たちはこの声に驚いてあたりを見回しましたがイエスお一人の他は誰もいません。
このイエスは、受難の道を十字架を背負って進もうとするかたです。イエスの栄光は十字架を通してのみ現されます。

アブラハムは不条理を「神の試み」と受け止めました。しかしそれによって不条理がなくなるわけではありません。不条理は不条理のままですが、それが神の力によって変容されます。

不条理をイエスが担ってくださっているからです。