ヨハネによる福音

 〔そのとき、〕3・22イエスは弟子たちとユダヤ地方に行って、そこに一緒に滞在し、洗礼を授けておられた。23他方、ヨハネは、サリムの近くのアイノンで洗礼を授けていた。そこは水が豊かであったからである。人々は来て、洗礼を受けていた。24ヨハネはまだ投獄されていなかったのである。25ところがヨハネの弟子たちと、あるユダヤ人との間で、清めのことで論争が起こった。26彼らはヨハネのもとに来て言った。「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」27ヨハネは答えて言った。「天から与えられなければ、人は何も受けることができない。28わたしは、『自分はメシアではない』と言い、『自分はあの方の前に遣わされた者だ』と言ったが、そのことについては、あなたたち自身が証ししてくれる。29花嫁を迎えるのは花婿だ。花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。だから、わたしは喜びで満たされている。30あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」

 

 ヨハネ福音書は、洗礼者ヨハネがイエスに洗礼を授けたと述べていません。洗礼者ヨハネの弟子たちが「ラビ、ヨルダン川の向こう側であなたと一緒にいた人、あなたが証しされたあの人が、洗礼を授けています。みんながあの人の方へ行っています。」とヨハネに報告しますが、ヨハネ福音書はイエスが洗礼を授けていたのではなく、イエスの弟子たちが洗礼を授けていたと強調します。イエスの弟子たちの洗礼は、イエス復活後の弟子たちによる洗礼とは異なり、イエスの弟子になり、イエスに付き従う者となる決意を示すものだったのかもしれません。

 洗礼者ヨハネは、イエスの弟子たちが増えていることを聞いたとき、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない。」と言います。洗礼者ヨハネはイエスの先駆者としての使命を自覚していました。

 洗礼者ヨハネの自覚は、教会で司牧者(牧会者)として働く者に通じます。

ルカによる福音

 5・12イエスがある町におられたとき、そこに、全身重い皮膚病にかかった人がいた。この人はイエスを見てひれ伏し、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と願った。13イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去った。14イエスは厳しくお命じになった。「だれにも話してはいけない。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたとおりに清めの献げ物をし、人々に証明しなさい。」15しかし、イエスのうわさはますます広まったので、大勢の群衆が、教えを聞いたり病気をいやしていただいたりするために、集まって来た。16だが、イエスは人里離れた所に退いて祈っておられた。

 

 「重い皮膚病」と訳されている言葉を、新約聖書翻訳委員会の佐藤研氏は「らい病」としています。

 解説には、病をしばしば罪の結果の罰とみなす当時の観念の中でも、「レプラ」は特にその典型例であった。社会的な偏見と差別のあり方が、ここでの「レプラ」と日本の歴史上の「らい病」とでは類似しているので、あえて「らい病」という訳語にしたとあります。

 日本ではこの病気に罹患したと判断されると、強制収容所のようならい病院に収容されました。「重い皮膚病」という言葉では、「らい病」という名に込められたのろいをあらわすことができないと思います。

 名古屋教区の先輩司祭には、誤診で「らい病」とされ、誤診が判明したのち、司祭になった方がいらっしゃいます。

ルカによる福音

 4・14イエスは〝霊〟の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった。15イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。

 16イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。17預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。18「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、19主の恵みの年を告げるためである。」

20イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。21そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。22皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いた。

 

 ルカ福音書のイエスのガリラヤ伝道開始の場面が朗読されました。

 ルカ福音書では聖霊の力が強調されます。イエスの宣教は聖霊の力によるものでした。

イエスは特定のラビに師事していたわけではないにもかかわらず、諸会堂で教えることができました。イエス時代の会堂には会堂長がいました。会堂長の許可があれば、特に律法の専門家でなくても聖書を朗読したり解説したりすることができたようです。

イエスは会堂で預言者イザヤの書を読んだ後、解説をしたのではなく、会堂にいた人々に「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と宣言しました。

会堂にいた人たちはイエスのみ言葉の力強さに、驚きました。彼らは聖霊の力を実感したのだと思います。

 イエスのみ言葉にこもる聖霊の力を、毎日の生活の中で実感することができますように。