マタイによる福音

 〔そのとき、〕8・5イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、6「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と言った。7そこでイエスは、「わたしが行って、いやしてあげよう」と言われた。8すると、百人隊長は答えた。「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。9わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」10イエスはこれを聞いて感心し、従っていた人々に言われた。「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。11言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。12だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」13そして、百人隊長に言われた。「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように。」ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた。

 14イエスはペトロの家に行き、そのしゅうとめが熱を出して寝込んでいるのを御覧になった。15イエスがその手に触れられると、熱は去り、しゅうとめは起き上がってイエスをもてなした。16夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。17それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

 

 カトリック教会には「病者の塗油の秘跡」があります。

 信者が重篤な病気を患い、死の危険を感じるとき、使徒ヤコブの手紙に「あなたがたの中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を起き上がらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主が赦してくださいます。」とあるように、司祭を招いて「病者の油」を塗る式です。

 その儀式書に掲載されている福音書の朗読箇所が本日の福音です。病気、それも重篤な病気にかかることは信仰の試練の時でもあります。

 孤独の中で苦しむとき、主が訪れてくださり、いやしの油で触ってくださる秘跡は、患者に大きな勇気と安心をもたらすものです。

 イエスは超越的な力を発揮して病気を癒やすのではありません。

 「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」とあるように、イエスは患者の病を背負ってくださるのです。

 この秘跡は聖体拝領を含みます。病者の塗油の時の聖体拝領は、「旅路のかて」と呼ばれ、この世の生活を終え、天に旅立つときの糧です。

 残念ながら、さまざまな理由で聖体拝領ができないことが増えています。患者の家族は患者が聖体拝領できる間に司祭を呼んでくださるようお願いしたいものです。

マタイによる福音

 〔そのとき、〕8・1イエスが山を下りられると、大勢の群衆が従った。2すると、一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して、「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。3イエスが手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。4イエスはその人に言われた。「だれにも話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めた供え物を献げて、人々に証明しなさい。」

 

 レビ記の規定により、重い皮膚病を患った人が病気が治った場合、祭司によって病気が完全にいえたと証明されなければ、家族や共同体に戻ることができません。

 イエスが業病を治したことが知られれば、本来の使命を遂行する妨げとなると考え、病気が治ったことを祭司だけに見せるようにと言ったのです。

マタイによる福音

 〔そのとき、イエスは弟子たちに言われた。〕7・21「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。22かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。23そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』

 24そこで、わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。25雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。26わたしのこれらの言葉を聞くだけで行わない者は皆、砂の上に家を建てた愚かな人に似ている。27雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家に襲いかかると、倒れて、その倒れ方がひどかった。」

 28イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。29彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。

 

 イエスの山上の説教(マタイ福音書5章から7章)の結びの部分です。

 山上の説教の冒頭は「イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。」と語られますから、イエスは山で、近くに寄って来た弟子に語ったようにも思えますが、結びの部分は「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」とあるので群衆にもその声は聞こえていたことになります。

 イエスは「わたしのこれらの言葉を聞いて行う者は皆、岩の上に自分の家を建てた賢い人に似ている。」と言います。

 詩編で「主はわが岩、わが城」と歌われるように、「岩」は「主である神」そのものを指す言葉でした。

 イエスは「わたしの言葉(教え)に従うことは、神という絶対的な岩の上に人生の土台を置くことと同じである」と言っているのです。

 単なる一人の預言者や教師としてではなく、神の権威を持って語っているからこそ、自分の言葉を「岩」にたとえます。

 この話を聞いた当時の群衆は、イエスの教えに「権威がある」ものとして律法学者たちとの違いに非常に驚きました。