ルカによる福音

〔そのとき、イエスは話しておられたが、〕11・37ファリサイ派の人から食事の招待を受けたので、その家に入って食事の席に着かれた。38ところがその人は、イエスが食事の前にまず身を清められなかったのを見て、不審に思った。39主は言われた。「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。40愚かな者たち、外側を造られた神は、内側もお造りになったではないか。41ただ、器の中にある物を人に施せ。そうすれば、あなたたちにはすべてのものが清くなる。」

 

イエスはファリサイ派の人から食事に招かれても応じます。

イエスは食事の前に身を清めるユダヤ人の習慣を熟知していながら、あえてご自分の身を清めなかったのだと思います。

イエスを招いたファリサイ派の人は、イエスの言葉を聞いて、回心したでしょうか、それともイエスの言葉に激怒したでしょうか。

 

イエスの聖テレジアについては女子パウロ会ホームページをごらんください。

https://www.pauline.or.jp/calendariosanti/gen_saint365.php?id=101501

ルカによる福音

〔そのとき、〕11・29群衆の数がますます増えてきたので、イエスは話し始められた。「今の時代の者たちはよこしまだ。しるしを欲しがるが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。30つまり、ヨナがニネベの人々に対してしるしとなったように、人の子も今の時代の者たちに対してしるしとなる。31南の国の女王は、裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。この女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来たからである。ここに、ソロモンにまさるものがある。32また、ニネベの人々は裁きの時、今の時代の者たちと一緒に立ち上がり、彼らを罪に定めるであろう。ニネベの人々は、ヨナの説教を聞いて悔い改めたからである。ここに、ヨナにまさるものがある。」

 

 「ヨナのしるし」とは一体何を指しているのでしょうか。

 

 マタイ福音書では、ヨナのしるしとは「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、大地の中にいることになる。」とイエス自身が言っています。

 

 ヨナの終わりに、神がヨナに、「お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。」と語ります。

 

 ヨナのしるしとは、ヨナを含めたユダヤ人が異邦人は救われないと思い込んでいたのに対して、神は異邦人を惜しまずにいられない方ことをヨナに示したことではないかとわたしは思います。

マルコによる福音10:17-30

 〔そのとき、〕17 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」18 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。19 『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。21 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」22 その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。23 イエスは弟子たちを見回して言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」24 弟子たちはこの言葉を聞いて驚いた。イエスは更に言葉を続けられた。「子たちよ、神の国に入るのは、なんと難しいことか。25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」26 弟子たちはますます驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言った。

 27 イエスは彼らを見つめて言われた。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」

 28 ペトロがイエスに、「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いだした。29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。わたしのためまた福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた者はだれでも、30 今この世で、迫害も受けるが、家、兄弟、姉妹、母、子供、畑も百倍受け、後の世では永遠の命を受ける。

 

 第一朗読は「知恵の書」です。知恵の書は三部構成になっています。第一部は1~6章、第二部は7~9章、第三部は10章から終わりまでです。第二部は知恵に対するソロモン王が知恵への愛について語る形式が取られます。本日の朗読箇所は第二部の冒頭部分です。ソロモンは「知恵に比べれば、富も無に等しいと私は思った」と語ります。知恵がなければ富は人を惑わし、破滅させることさえあります。

 知恵と知識は比べられることがあります。知識は、現代ではコンピューターの進化により厖大な情報量の蓄積として考えることができます。またコンピューターが「学ぶ」ことができるようになりました。

知恵は神の力の息吹、全能者の栄光から発する純粋な輝きと言われます。

 誇るべき多くの知識を持っていなくても、知恵深い人に出会うことがあります。

 

 第二朗読は「ヘブライ人への手紙」です。著者は手紙の宛先の共同体が、不信仰のゆえに神の安息には入れず荒野で死んだイスラエルのようになってはならず、「神の言葉」に聞き従うよう勧告します。

「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができます。」

 この神の言葉こそ第一朗読で、知恵と呼ばれている方ではないでしょうか。

 

 本日の福音の冒頭に出てくるイエスの「旅」は、ご自分が十字架に付けられるエルサレムへの旅です。旅の途上にあるイエスの前に跪いた青年は「永遠の受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と尋ねます。イエスが律法の掟(十戒)について言及すると、彼は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。そこでイエスが彼を慈しんで、「行って持っている物を売り払い、……わたしに従いなさい」と言うと彼は、「気を落とし、悲しみながら立ち去」ります。

 

 わたしはこの青年が「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えたことに感嘆します。律法の掟は知っていてもそれを子供の頃から遵守する人は、イエスの時代でもそう多くはなかったと思います。

 

 なぜ青年はイエスの前に現れたのでしょうか。それは律法の掟を守っていても、何かが欠けているとこの青年は感じていたからではないかと思います。

 

 青年が去った後、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。」と言います。弟子たちがイエスの言葉に驚いたのは、彼らもまた金持ちは神の祝福を受けていると考えていたからではないでしょうか。

 その彼らを見つめてイエスは「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」といいます。

 神に全幅の信頼をおき、富への執着を捨ててイエスに従うことをイエスは求めます。イエスは、シモンとアンデレが湖で網を打っているとき「私について来なさい」と呼ばれました。それに対して、「二人はすぐに網を捨てて従った」とあります。そのときの彼らに対するイエスの眼差しと、この金持ちの青年に対する眼差しは全く同じものだったと思います。しかし彼は自分のもっているものへの執着を捨てきれずにイエスのもとを去ったのです。

 

ひとこと

 わたしが高校生だった頃、父が経営する会社が倒産しました。倒産する前は、倒産したら、一家はどうなるのか、学校には行けるのかと不安でした。また、こうなったのは父のせいだと恨んでもいました。しかし、実際に倒産した後は、それまでの不安は全くなくなり、その日一日を生きていくために家族が一つになって懸命に働きました。

 あると思っているものが失われる恐怖は、実際にそれが失われることよりも人間を苦しめるものだと実感しました。

 多くのものを持っている人は、わずかなものしかもっていない人よりも、ものがなくなることにより強く恐怖感を覚えるのではないでしょうか。

 しかし、私たちの人生は有限であり、やがて終わりを迎えます。その時、自分が持っていると思っていたものはすべて他人のものとなり、裸で神の前に立つことになります。

 イエスはくり返し、天に宝を積みなさいと言います。それは宝を死蔵させるのではなく大勢の人と分かち合いなさいということです。しかし、私たちは頭でそのことを理解しても、なかなか行動にはいたらないものだと実感します。

 

 ペトロは「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言いましたが、弟子たちは誰が一番偉いかということで仲間割れをしていました。

 

 イエスに付き従うためには一度捨てるだけでなく、毎日捨て続けることが求められますが、わたしたちは自分の持っているものにしがみつき手放そうとしない傾向があります。

 

イエスは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ。」と断言します。その神にすべてを委ねて生きていくことができますように。