始めろよ。
じゃあ、冒頭の、亡者たちがフルアニメーション(に近い)で表現されていた。沈んだ色彩で。はっとした。輪郭が溶解しかかっているヒト達が、元来生き生きと表現するのに使われる手法で亡者として描かれており、アクリル画材を主とした背景画に、くっきりと描かれた線画に彩色した、セルアニメ然とした従来の手法-リミテッドアニメで表現されるキャラが現世の、いきものとしてあらわされる。
驚くところかね。
元来アニメーションはヒトの残像を利用して動かないものを生き生きと動かすことを-
はいはい、このままだとすべての映画はアニメであるってとこまで説明しないと気がすまないんだろ。
…。
で、ナチュラルな動きを表現するにはロトスコープなんだが、それはアニメとしての面白さをスポイルしているからセルアニメが独自の進歩を遂げたと。
続けな。
もはやセルアニメーションは「面白い物語」を表す記号になってないかという問題がでてくるんだけど。
そこだ。面白い物語が冒頭直後からしばらくは展開しない。
プラプラの出し入れも、なぜフレームインや部屋にいたり、ドアの向こうとかから現れたりするんだろう?そのほうがアニメとしては手間がかかるのに。
耳ざわりよく言えばアニメであることに甘えていない?
違うね、手段が目的化しているのではない。注ぎ込まれた労力を見せたいのではなく、あくまで日常を表現することに一役買っているんだ。
問題はそれで日常描いてどーすんの?アニメにする意味あんの?ということなんだけど。
君までかよ。アニメにする必要ないじゃないかって意見がこうも多いとは驚いた。うっちゃっとこうかとも思ったけど、一言だけ。アニメーションではなくライヴアクションで、観客が鼻白まずに観れる、ギャグやパロディでない『カラフル』を想像してみてほしい。
…。
脚色も。原監督は換骨奪胎をせず、原作の主題を補強するため大胆に脚色する。『河童のクゥと夏休み』ではオッサンを出したり。
原作者が一番嫌うんじゃないのそれ。おまけに本作では関係ない、趣味にしか見えないシーンを入れたり。
わからないかなー、玉電のシーンを入れたのは趣味だけではなく、取材していったらスタッフ誰ものなかにある男の子の部分が頭をもたげてきてハマってゆく過程やつながりこそが重要で、だからこそ絶妙な筆致でアニメとして描かれているんだし、回想やイメージにしたってここに限ってはCGCGしてていいんだ。
あーそう。ま、原作は原監督向きなんだけど。原作に在る、監督の腕の見せどころだぜここってところを封じているのはわかった。
そのストイックな部分もきちんと見て解説を加えてやるのがプロの映画ライターなんだけどね。
書かない理由はいろいろ考えられる。
(略)
作画がヘタだとか?
限られた人モノカネ時間できちんとしたものを仕上げる職人監督としての評価の方を優先させるのがプロの物書きってもんでしょう?
俺達ゃ素人なのに?
プロの定義を変えなきゃね。それでメシ食ってるなんてのは過去の話、それまでの人生でもっとも長い時間を費やしたカテゴリのことさ。
じゃあヒトはみんな睡眠のプロってこと?
まぜっかえすんじゃねーよ!
(略)
いってーなこのやろう。
るせえ、こっちこそタンコブ出来たぞ。
(略)
まあ、こういう俺たちみたいな関係の友人がいたら、真も自殺せずにすんだのかもしれない。
それに、ここんとこロクでもない文章ばかり目についていたからな。
ああ、それある。『カラフル』に戻るぞ。他人事ながらあの場にいたら真をぶん殴っていたかもって思った場面もあったし。
そりゃ演出が上手いんだろ。
決して下手じゃないんだ。でも下手にならざるをえない映像物語制作の現場なんていくらでもある。
(略)
それがおなじ有名原作ものとはいえ、比較的地味な内容の、家庭や学校や地域が舞台の物語ならば。アニメーションの妙たるディテールの再現に凝って、早乙女君と玉電跡を歩いたり、自転車に乗ったり。
友達が行くから自分も同じ高校へ行くなんてひと昔前なら何甘ったれてんだと言われたもんだけど。死ぬよりゃましってことかい?
違う、それが生きる方途ならそれもアリだってことだ。いいひと、わるいひとなんていない。いいおこない、わるいおこないがあるってだけだというのがテーマでしょ?
うん。
気付かないうちに思いやりを欠いていたり、イジメっ子になっているかもしれない。仕事に追われて家族をないがしろにしているかもしれないし、さびしさから悪いとわかってても眼前の良い人に身を許しているかもしれない。それが人ってもんでしょ?
うん。
それに気づき受け止められるようになることが成長ってもんでしょ?もちろん成長するのは大人もなんだよ。
…うん。
(略)
なんでケンカになったのかな俺達。
そりゃアレだ、俺もお前も成長する途中だからさ。話は暗いんだ。イジメ、不登校、母の不倫、家族の不和、援助交際に自殺と。『告白』並みの不幸ばかりだ。
『告白』みたいな楳図かずおノリじゃなかったじゃん。
情念の復讐譚ではない。作者の姿勢の問題。
わかってるよ、善意だけでも悪意だけでもモノは作れないってことだろ?
それこそカラフルなのにね。具体的にほめるとまゆかを雨中にさらって走った後、彼女が上着を脱ぐところのセクシーさとか、肉まんとフライドチキンんとことかね。安っぽいって言いたい奴は言わせておけって思ったホント。それら安っぽい日常に「ぼくがぼくであるために」や「青空」をギャグやパロディでなく挿入できる映像物語を、現在に通じるものとして作っている。『ヱヴァ:破』のように(中略)のほうが実はやりやすい。
マネできないってんだろ?でもアレだ、物語にハクつけるために中島みゆき引っ張って来るプロデューサーの方法論とどう違うのかね?
本質を衝く中島みゆきの歌詞で、ドラマ自体をヘヴィにキメるのもありさ。でも挿入歌として、決して重くせず、あくまでドラマに沿った、劇伴にちかい使われ方の、バブル崩壊以降でも評価され続けている曲の使われ方は、ゼロ年代以降例を知らない。
…卵か鶏かじゃねえのかよ。むしろ恥ずかしげもなくよくもまあと感じたぜ。
もっかい言うぞ、ドラマや演出の弱さや偽善色をカバーするために本質を衝いた曲を使うのではなく、物語ありき、次に演出がある。それらを盛り上げる選曲だという、ダサかろうが厚顔だろうがあたりまえの仕事を評価してんだ。今やそれがマネできねえってんだよ。長編アニメくらいしかないってくらい。まして本作は名曲が
…わーったよ。
背景の描き込みがって意見も多いけど、貧乏くささもふくめた現実世界の豊饒さについていける鑑賞眼を現代中学生に求めるのは限界がある。
もってきて主人公はサエない男子。ハナシも暗けりゃ。
リアルにキメるんならアニメしかないじゃない。『告白』がモロにアニメだったように。
イマドキの教育映画ってこんなのかよ。
文科省のお墨付きはもらってんだよねこれ。鑑賞後のすがすがしさは登場人物のほぼ全員が、成長もしくは成長への証をたてる物語だからだ。
母親との和解もないし、イジメのケリもついてない、問題解決策のサジェスチョンに乏しいのに?
解決が目的なのではない。解決に至るかどうかも確かではない長い道のりに付き合っていこうとする覚悟のことだ。
じゃあ解決じゃないんだよな、たかだか数十年の人生…。
まぜっかえすね、表出るか?
上等だ。
じゃあ、冒頭の、亡者たちがフルアニメーション(に近い)で表現されていた。沈んだ色彩で。はっとした。輪郭が溶解しかかっているヒト達が、元来生き生きと表現するのに使われる手法で亡者として描かれており、アクリル画材を主とした背景画に、くっきりと描かれた線画に彩色した、セルアニメ然とした従来の手法-リミテッドアニメで表現されるキャラが現世の、いきものとしてあらわされる。
驚くところかね。
元来アニメーションはヒトの残像を利用して動かないものを生き生きと動かすことを-
はいはい、このままだとすべての映画はアニメであるってとこまで説明しないと気がすまないんだろ。
…。
で、ナチュラルな動きを表現するにはロトスコープなんだが、それはアニメとしての面白さをスポイルしているからセルアニメが独自の進歩を遂げたと。
続けな。
もはやセルアニメーションは「面白い物語」を表す記号になってないかという問題がでてくるんだけど。
そこだ。面白い物語が冒頭直後からしばらくは展開しない。
プラプラの出し入れも、なぜフレームインや部屋にいたり、ドアの向こうとかから現れたりするんだろう?そのほうがアニメとしては手間がかかるのに。
耳ざわりよく言えばアニメであることに甘えていない?
違うね、手段が目的化しているのではない。注ぎ込まれた労力を見せたいのではなく、あくまで日常を表現することに一役買っているんだ。
問題はそれで日常描いてどーすんの?アニメにする意味あんの?ということなんだけど。
君までかよ。アニメにする必要ないじゃないかって意見がこうも多いとは驚いた。うっちゃっとこうかとも思ったけど、一言だけ。アニメーションではなくライヴアクションで、観客が鼻白まずに観れる、ギャグやパロディでない『カラフル』を想像してみてほしい。
…。
脚色も。原監督は換骨奪胎をせず、原作の主題を補強するため大胆に脚色する。『河童のクゥと夏休み』ではオッサンを出したり。
原作者が一番嫌うんじゃないのそれ。おまけに本作では関係ない、趣味にしか見えないシーンを入れたり。
わからないかなー、玉電のシーンを入れたのは趣味だけではなく、取材していったらスタッフ誰ものなかにある男の子の部分が頭をもたげてきてハマってゆく過程やつながりこそが重要で、だからこそ絶妙な筆致でアニメとして描かれているんだし、回想やイメージにしたってここに限ってはCGCGしてていいんだ。
あーそう。ま、原作は原監督向きなんだけど。原作に在る、監督の腕の見せどころだぜここってところを封じているのはわかった。
そのストイックな部分もきちんと見て解説を加えてやるのがプロの映画ライターなんだけどね。
書かない理由はいろいろ考えられる。
(略)
作画がヘタだとか?
限られた人モノカネ時間できちんとしたものを仕上げる職人監督としての評価の方を優先させるのがプロの物書きってもんでしょう?
俺達ゃ素人なのに?
プロの定義を変えなきゃね。それでメシ食ってるなんてのは過去の話、それまでの人生でもっとも長い時間を費やしたカテゴリのことさ。
じゃあヒトはみんな睡眠のプロってこと?
まぜっかえすんじゃねーよ!
(略)
いってーなこのやろう。
るせえ、こっちこそタンコブ出来たぞ。
(略)
まあ、こういう俺たちみたいな関係の友人がいたら、真も自殺せずにすんだのかもしれない。
それに、ここんとこロクでもない文章ばかり目についていたからな。
ああ、それある。『カラフル』に戻るぞ。他人事ながらあの場にいたら真をぶん殴っていたかもって思った場面もあったし。
そりゃ演出が上手いんだろ。
決して下手じゃないんだ。でも下手にならざるをえない映像物語制作の現場なんていくらでもある。
(略)
それがおなじ有名原作ものとはいえ、比較的地味な内容の、家庭や学校や地域が舞台の物語ならば。アニメーションの妙たるディテールの再現に凝って、早乙女君と玉電跡を歩いたり、自転車に乗ったり。
友達が行くから自分も同じ高校へ行くなんてひと昔前なら何甘ったれてんだと言われたもんだけど。死ぬよりゃましってことかい?
違う、それが生きる方途ならそれもアリだってことだ。いいひと、わるいひとなんていない。いいおこない、わるいおこないがあるってだけだというのがテーマでしょ?
うん。
気付かないうちに思いやりを欠いていたり、イジメっ子になっているかもしれない。仕事に追われて家族をないがしろにしているかもしれないし、さびしさから悪いとわかってても眼前の良い人に身を許しているかもしれない。それが人ってもんでしょ?
うん。
それに気づき受け止められるようになることが成長ってもんでしょ?もちろん成長するのは大人もなんだよ。
…うん。
(略)
なんでケンカになったのかな俺達。
そりゃアレだ、俺もお前も成長する途中だからさ。話は暗いんだ。イジメ、不登校、母の不倫、家族の不和、援助交際に自殺と。『告白』並みの不幸ばかりだ。
『告白』みたいな楳図かずおノリじゃなかったじゃん。
情念の復讐譚ではない。作者の姿勢の問題。
わかってるよ、善意だけでも悪意だけでもモノは作れないってことだろ?
それこそカラフルなのにね。具体的にほめるとまゆかを雨中にさらって走った後、彼女が上着を脱ぐところのセクシーさとか、肉まんとフライドチキンんとことかね。安っぽいって言いたい奴は言わせておけって思ったホント。それら安っぽい日常に「ぼくがぼくであるために」や「青空」をギャグやパロディでなく挿入できる映像物語を、現在に通じるものとして作っている。『ヱヴァ:破』のように(中略)のほうが実はやりやすい。
マネできないってんだろ?でもアレだ、物語にハクつけるために中島みゆき引っ張って来るプロデューサーの方法論とどう違うのかね?
本質を衝く中島みゆきの歌詞で、ドラマ自体をヘヴィにキメるのもありさ。でも挿入歌として、決して重くせず、あくまでドラマに沿った、劇伴にちかい使われ方の、バブル崩壊以降でも評価され続けている曲の使われ方は、ゼロ年代以降例を知らない。
…卵か鶏かじゃねえのかよ。むしろ恥ずかしげもなくよくもまあと感じたぜ。
もっかい言うぞ、ドラマや演出の弱さや偽善色をカバーするために本質を衝いた曲を使うのではなく、物語ありき、次に演出がある。それらを盛り上げる選曲だという、ダサかろうが厚顔だろうがあたりまえの仕事を評価してんだ。今やそれがマネできねえってんだよ。長編アニメくらいしかないってくらい。まして本作は名曲が
…わーったよ。
背景の描き込みがって意見も多いけど、貧乏くささもふくめた現実世界の豊饒さについていける鑑賞眼を現代中学生に求めるのは限界がある。
もってきて主人公はサエない男子。ハナシも暗けりゃ。
リアルにキメるんならアニメしかないじゃない。『告白』がモロにアニメだったように。
イマドキの教育映画ってこんなのかよ。
文科省のお墨付きはもらってんだよねこれ。鑑賞後のすがすがしさは登場人物のほぼ全員が、成長もしくは成長への証をたてる物語だからだ。
母親との和解もないし、イジメのケリもついてない、問題解決策のサジェスチョンに乏しいのに?
解決が目的なのではない。解決に至るかどうかも確かではない長い道のりに付き合っていこうとする覚悟のことだ。
じゃあ解決じゃないんだよな、たかだか数十年の人生…。
まぜっかえすね、表出るか?
上等だ。