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映像関係の仕事をしてキャリアを積んでゆくためには、ある程度の現場叩き上げの経験が必要で、小生も例外ではなく、駆け出しのころは制作会社に在籍し、ADとしてパシリ、雑用に明け暮れていた。
かれこれ二十年近く前になるが、当時撮影、収録といえば撮影担当のカメラマン、音声担当のVE(ビデオエンジニア)、照明(VEさんが兼務する場合もある)さんらがチームになって現場に赴き、ディレクターを入れて最小単位4名、AD、プロデューサーもふくめればさらに所帯が大きく、映画のように三桁に達することこそないが、それなりにモノもカネも必要だったのは今も変わるまい。他にも編集や整音にはそれぞれ専用のスタジオ、テロップは写植で打ったカードを編集室で専用機にかけ、ときには切り張りまでして微調整するという手間をかけていたものだ。
それらがここ十年程で大きく変化した。編集はPCベースでハイビジョンが可能になった。ということは映画の35ミリ劇場スクリーンに映写できるクオリティの映像編集が家庭用パソコンでできるのだ。かつて写植屋さんで専門の職人さんに打ってもらっていたテロップも、ワープロで打ったテキストがそのまま重ねられるようになり、蛍光灯やLED光源による照明機材の発達は、大きな音がネックだった発電機が現場では不要になった。
遠景セット(カキワリ)やマットペインティングはCGがとって代わり、収録形態も磁気テープからハードディスクに代わりつつある。って言うか、電車内でもスマートフォンを普通に見かけるようになった。あれってハイビジョンで収録して即ネットに流せるんだよなあ、いやはや、恐ろしいほどのダウンサイジングが進んだものである。
はたと考えるのが、撮影、音声、照明、編集、整音、完成パッケージ(通称「完パケ」)、場合によってはDVDオーサリングに至るまで、演出もふくめて一人で可能となったことだ。したがって大量の失業者がそこに生み出されるのは必然で、今でも「あの写植屋さん今何してんだろ?」とか、「あの編集さんウデは並みだったし、クビになってなきゃいいのになあ」などと、テメエのこと棚に上げて思うことがある。何しろ手に職があるのに食いっぱぐれるのである。再就職支援会社が急伸するのももっともだとも思う。
こんな話を長々と述べたのは、とどのつまり人殺ししか能のない侍が泰平の世になってから一挙に大量失業の憂き目に会う時代の、数ある悲劇のエピソードのひとつを見て、思うことのひとつだからだ。

で、『切腹』(1962 小林正樹監督 橋本忍脚本)は世評と小生の感想がまったく違う一本なので触れざるをえない。
失敗作ではない、成功作だと思う。よくできているウェルメイドだと思う。練り上げられた脚本だと思う。出演者もスタッフもよく仕事をしていると思う。
しかしだ。
諸兄にはテレビや映画なりの映像を見て、「このコ普段は性格ひんまがってるんだろうな」とか、「よくできた映画だけど、この監督スタッフから嫌われてんだろうな」と感じたことはないだろうか?下司の勘ぐりと言えばそのとおりだが、私などはしょっちゅうだ。友人は『クラッシュ』(2004ポール・ハギス)を見て「アジア人にたいする思い上がりが感じとれる」と漏らした。同作にアジア人差別的な描写が皆無であるにもかかわらずにだ。別の友人は『キャッチミー・イフユーキャン』(2002スピルバーグ)を見て、「スピルバーグ何腹立ててんだ?」と言っていた。またまた別の友人は『▼▼▼』(■■■)を見て「出演者の○○○・○○○○、絶対●●だよ」とも。
思い出すにどの作品にもそんな描写は作中にはないし、曲解だと断じるのは簡単だ。でも、そのような見方もできるか?とアンテナを働かせることも可能だ。
もちろんこんな鑑賞法勧めたりは出来ないが、銀幕に上映される作品を、素直に感じ取ってほしいなどと優等生ちっくに収める拙ブログでもない。
誰にでもある深読み、裏目読み、勘ぐりの類で、観た後、一杯やりながら友達同士であーだこーだ話す鑑賞営為など普通の日常としてあるではないか。
でもって映画は視聴覚のみならず、記録されるはずのない「におい」まで写し取ってしまうものなのだという結論に至るのが、友達と飲んで話す内容のおおよそだ。
『切腹』に戻る。
内容はそれこそビシバシキマるフレームに演技に、付け入る隙のない物語構成でガッチガチ。封建制度批判というテーマの表現も含めて成功作と言えよう。
では曲解するとどういった感想になるのか?
監督小林正樹、脚本橋本忍、撮影宮島義男、美術戸田重昌、音楽武満徹、出演仲代達矢をはじめ俳優座の面々、三国連太郎、題字勅使河原蒼風。
エリートである。一億総苦労人世代ではあっても、当時の撮影所システムの叩き上げもふくめ、メインとなるスタッフもキャストもほとんどがエリートである。テーマが「封建制度批判」、当時に置き換えれば、高度成長期、管理社会批判と受け取れよう。それが隙のない構成の物語として隙のない映像で作り上げられているのである。スタッフ、キャスト誰一人として異議を持たずに完成に驀進したことがうかがえる。
そこから漂ってくるのはガチガチの管理臭、エリート臭である。
イヤミである。いや、イヤミのない作品の存在感が嫌味なのだ。

『一命』は2Dで観た。スタッフにはエリートも多数参加している。何しろ主演がサラブレッドである。家老斎藤勘解由を演じる役所広司は無名塾出身だし、竹中直人は青年座、音楽も脚本も美術も名のあるスタッフだ。で、非エリートの代表みたいなのが監督。
そこには管理臭、エリート臭はない。クライマックス、浪人津雲半四郎が井伊家中の家来たちの真剣に竹光で切り結ぶ。竹光に対して真剣を抜刀した家中の者は内心「なぶり殺されに来た奴め」とニヤニヤである。果たして切り結び、半四郎に竹光で打ちすえられた井伊家の若き家来の茫然自失の様。
瑛太扮する千々岩求女が竹光で切腹し、介錯人沢瀉彦九郎がなかなか介錯しないドSぶりを見かねた家老斎藤が(おそらく大坂の陣で負傷したのであろう)ビッコをひきながら自ら求女の上にゆき、介錯するシーンも含め、前作と最も人物造形が変わったのは家老斎藤である。関ヶ原も大阪も共に戦った家中ながら方や改易、片方は大藩のままである。しかも家老職というエリートである以上、部下への示しもある。また戦にも出た経験も多々あろうことから浪々の身の知人もいよう。多少なりとも彼らへの同情からかかる挙に出たのであろうし、求女の遺体返送の際、妻子へと小者に三両を託したのもその表れだとうかがえる。しかし、狂言切腹は許さず、あくまで「武士に二言はない」ことを貫く。
もうひとつあった。求女切腹の際、求女が抜いた差料が竹光であることがさらされる。斎藤は周囲を見回し家中の者誰一人としておらんのかと自らの差料を貸そうとする。
制度批判も管理社会批判も結構だが、ンなもんフィクションである以上限界がある。なら、家老斎藤のように悪い脚を引きずりながらもこのクソッタレた体制に慣れた、巡り合わせいかんによっては自らもそのようになっていたかもしれない思いやりのない若い家臣たちとも付き合っていくしかない。彼は乱世にあっても泰平の世でも主君に仕え続けるのである。エリートの悲哀とともに。そして主君のキャスティングすら前作にたいするイヤミに受け取れるエピローグ。

もちろん、「ならなぜ半四郎は主君井伊直孝をやらない?」との意見もあろう。え?『十三人の刺客』でやったじゃないかって?
『紅の豚』(1992 宮崎駿)のヒロイン、ジーナの台詞を思い出した。
「ここでは人生がもうちょっと複雑なの」