『ももへの手紙』(2012 沖浦啓之)とスタッフの多くがダブっているのに出来の差は一目瞭然だ。
なーんてお行儀の良い感想など出て来ないのがこのブログなわけで。
三年ぶりだってのに何ケンカ売ってんだよ。
すみません。更新がこんなに間が空いたのも申し訳ありません。
今後ともよろしくお願いします。本題に入るぞ。
いきなりが重なるが3.11以降の作品であることは間違いない。
確かに、日常っていかに脆いかというのがはっきりした社会に住んでいる俺たち。廃墟も出て来るし。
しかも殲滅された使徒の血の色に染められた廃墟がね。
面食らわなかった?いきなり14年後だぜ?
SFネタとしてはポピュラーだし、やりたい放題やれる自主製作映画だし、なこと言い出したらキューブリックなんざ『2001年宇宙の旅』でフィルムのつなぎ目ウン十万年ってのやってるんだから。
シンジがネルフ本部でたべるメニューがディスカバリー号のそれだし?
21世紀になってからのエヴァの鑑賞者は面食らうだろうなと思うので説明すると、本編ではネルフと敵対する組織ヴィレが現れる。その戦艦AAAヴンダーの艦長は(ネックレスのない!)ミサト以下旧ネルフの使徒殲滅作戦スタッフ以下全く新しいキャラたちだ。
シンジにとってもいつのまに所属していた組織が敵味方に分かれたのか?とかの説明がないんだけど…。
『Air/まごころを、君に』を思い出してくれ。この作品で描かれたのは、ゼーレは下部組織ネルフに使徒を全て殲滅させ、(初号機を以て)人為的にサードインパクトを起こして人類の補完を成すのが目的だった。
みんなLCLでひとつになってよかったね?ってなワケないだろ!それって人類滅ぼしてんじゃんってアレだ。
で、加持の活動によってゼーレと人類補完計画の真相を知ったミサトは、弐号機にアスカを、初号機にシンジを乗せる。碇ゲンドウはというと(中略)
要するにセントラルドグマに使徒が来ようがエヴァが来ようが人類は滅亡する。それをエヴァでやろうとしたのがゼーレ。それまでの使徒殲滅完遂のための組織がネルフで、ゲンドウや冬月以外そのことを知らされていなかったネルフのメンバーがゼーレによる本部接収を拒むのは当然。どころか敵対するのが理屈だ。
『序』『破』から本作ではそこのところがすっ飛ばされた。
現実世界には類例に事欠かないんだけど。イラクと米国とか。
本来なら『破』以後2~3本はさまっててもおかしくないのが跳ばされている『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』(以下『Q』)なんだ。
(中略)
登場人物も整理されている。ゼーレの息の根を止めるために直接(ゼーレの委員の生命維持?)装置を止めるのが冬月(以外にスタッフがいない?)であることからもわかるように。ネルフとヴィレの戦いは本作時点では最終段階にさしかかっている。
監督の好きな量産文明のメタファであるモノ=コピーの積み重ねは残骸としてしか作中には登場しないしね。
赤富士バックの赤い点ひとつひとつがエヴァ(の亡骸)だぜ。
TV版では縦構図の信号機の列にはじまって『序』ではヤシマ作戦時における変圧器や『破』のオスプレイなどだね。それらが本作では廃墟やスクラップとしての表現として描かれる。ネルフのマークも変わってるんだけど、まるで『天空の城ラピュタ』(1986宮崎駿)にでてくる遺跡の古代文字だ。
14年後の、世界が変わり果ててもなお一刻を争う状況、ドラマ面ではカヲルを上手く立ち回らせて物語に緩急をつけたと?上手いと見るべきなのかな?
いや、君のような鑑賞巧者ではない浦島太郎状態の観客が面食らうのは世界のヴィジュアル面だけではなく時間の速度感覚というものだと思う。
都市生活者と地方の一次産業従事者との生活リズムの違いってやつ?
うん、それに近い。
この、おいてきぼり感や前後不覚感をどう受け取るかが本作を楽しむコツだと思うんだけど。
(略)
「伏線の回収」という紋切り型がまとっている事務処理ちっくな表現には好悪が激しいからね。
北野武監督作品などには君が今言った事務処理ちっくな表現しかない場合すら見られる。もちろん監督の演出力が試されるんだけど。『Q』を見る限りこりゃ恣意的に回収をすっ飛ばしてんなとも思える。なんたってエンドクレジット見てみたら作画スタッフだけでもドリームチームだぜこれ。これだけのスタッフに囲まれて、あえてヘタ打つリスクを(略)。
ま、力技でドラマを押し進める(『ダークナイトライジング』など)よりもシーン各個の演出に傾注するタイプの作者だし。空間表現の拙さは相変わらずだし。
恐らくセルアニメ史上初めてシースルーがデザインに取り入れられた空中戦艦は手描きでは表現不可能で、CGだからこそ実現できた。ならさらにきちんと空間表現もできるだろってツッコミは酷かね?
前述のように本作と『破』との間には『破』の予告が示す通り作者の構想が存在している。相当煮詰まるところまでいったんだとも思う。
そのうえであえてツッコめば、作品世界のバックグラウンドがあまりにも説明不足、特に後半はイメージボードそのままかよと言いたくなる。
逆にできるだけ善意に受け取れば、長期シリーズものの終盤特有の、スケジュール逼迫のあまり企画会議の準備稿まんま出しちゃいました感すら…ねぇ。
いきなりだけど、僕は本作を評価している。
俺もだ。世間では批判や酷評が目立つけど、『序』『破』から予想しうる、予告編までつくった次回作である『Q』が凡そ観客の期待や予想の外なのは、作者自身に、少なくとも「エヴァンゲリオン」への取り組み方に相当の変化があったのだという当然の考察を寡聞にして知らないし、本編中においても、前述の逼迫感からは作者の真摯さを見て取れる。(上から目線勘弁な、でも悲劇にたいする想像力を欠いていることへの批判は本ブログのテーマのひとつである。)
コメディが皆無だし。
ラブコメやロマコメやってる場合じゃないってのは明示されているよ。『序』や『破』やってる場合じゃないってこと。
3.11があったと。
『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:破』で第8使徒を倒した直後の、使徒の血による洪水というか、モロ津波の描写があって、あ、特撮ファンだってのがバレバレだったからね。所謂狭義の(予告に則った)『破』の続きをつくるわけにいかなくなったのは想像に難くない。
うがった見方をすれば『破』と『Q』の間にある物語を一旦捨てて、『破』に出て来た第8使徒殲滅直後の津波表現の跡が折重なった背景に『Air/まごころを、君に』ではないもうひとつのパラレルストーリー(ネルフVSヴンダー)を敷いて、TV版弐拾四話をクライマックスに混ぜたというわけか。
その文脈の企画ならばスポンサーは作画インにOKするわな。
で、仕上がって来たのが『序』『破』のファンにはとても公開直前プレビューできない内容なわけで。シンジ君の扱いひでえもん。
それにしても直前にビジネス系の1誌が特集組んだ位で、キネマ旬報を始めとして殆ど無視ってのもなあ。
俺はむしろビジネスや経済誌こそが特集組むべきだと思う。
どうして?
『エヴァンゲリオン』はTV版25話26話があったからこそ『シト新生』『Air/まごころを、君に』以降があったわけ。
うんうん。
『Q』の一部評判の悪さはコンテンツ寿命を延ばしているとも見てとれる。急いで言うが、マーチャンダイズやパチンコネタの供給源とかの視点はどーでもいい。
わかってる。これ見た全員が『シン・エヴァンゲリオン𝄇』に行くのは目に見えているし。(略)
ネルフは使徒を製造するようになり、エヴァはバッテリ交換で活動限界が伸びてるし…。
でも結局個々人の絆かい?カヲル君もああなるんだぜ?
アスカは相変わらずオイシいとこ持ってくし?
ショートカットが進歩しすぎた世界もSFネタとしてはありきたりだけど、敵も味方も満身創痍って感じ。持ち駒が尽きかけている感が出てる。
アニメは作者の感覚が滲み出にくいのが欠点。そこを弁えて演出できる経験値は、仕事以外のアンテナ力がモノを言うからなあ。
だからそこは3.11でスパーンと日常と隣り合わせの廃墟が差し出されたことを取り込んだ感覚が、おいてきぼり感として捉えられがちなんだ。
シンジと冬月との将棋の場面という明快なネタバラし(謎の氷解)があるのにね。
そこ!そこがきちんと描ききられているんだよ。「伏線の回収」なんだけど、事務処理ちっくさがない。
俺が気になったのは前作までの登場人物に感情移入できないことだ。14年の間にそれほどまでのことがあったんだということか?
新キャラにしか人間臭さが描出されていない。萌え要素は鈴原サクラが引き受けているが彼女も悲劇を帯びている。もちろん悲劇のトリガーは『破』のシンジとレイなんだけどね。自己と他者の断絶というテーマに回帰している点は見過ごせないはずなんだけど。
(中略)
で?結局としては面白かったの?面白くなかったの?
原子力ムラの住人かお前は?
ごめん。
前言撤回だと言われようが、終末感を示す記号だらけなのに終末を感じさせない。
マリも70年代で行き止まったままだ。97年劇場版エヴァの初公開時に劇場で見かけた、当時最もエヴァの鑑賞者層から遠いところにいるであろうバーコード禿げオヤジがいてさ、終映後狐につままれた顔で劇場を後にするのを見かけて「てめぇら団塊以前にわかるんなら苦労はしねえ」と思ったんだけど、『Q』はエヴァに未来性を嗅ぎ取って見に行く観客たちどころか現在の観客すら目先の世界観の行く末がわからないことを感じさせる。
君はわかってんのかよ?
回答はわからないだけど。フォローさせてくれ。
ご同輩、思い描いた21世紀になり申したか?ってならないことがわかってきた。TV版当時からね。で、時は流れて『Q』では廃墟に音楽はクラシック。
カヲルとシンジの交流の場として用意された背景は、エヴァのハンガー跡(そこだけ赤くない?)に置かれたピアノと植物だ。
古典回帰なんだよね、陳腐だと言われようが。年長であり兄貴分の映画鑑賞者こそ見抜くべきだ。未来人こそ置いてきぼりにされかけていることを。本作って実は結構スキがない。この緊迫感に鈍感でいるわけにいかない。
全くだ。友人をうしなおうがアスカに罵倒されようがレイがコピーだろうがどんなつながりだろうが現在の絆しかないじゃないか。チルドレンたちは歩いて行くじゃないか『風の谷のナウシカ』(宮崎駿1994年完結)のラストのように。
(略)