ウェブにおいて、震災の被災地でのロケ部分が浮いているとか、本編のストーリーとかみ合っていない。といった評を多く目にする。私見でもそう見えたのは事実。でも待てよ。本作は青春ドラマにカテゴライズされる映像物語である。ラスト、朝日に向かって「ガンバレ!」と応援を受けながら主人公が走り出す青春ドラマを2012年の現在、時代遅れの腐敗臭や演出の手垢や、わざとらしさを感じさせずにエンドロールまで見せる作品は、他に無い。世代バレを覚悟し、誤解を恐れずに言えば、尾崎豊が生きていたらどう思っただろうか?と考える。
かつて尾崎や彼のシンパは十代の反乱を標榜し、大人世代の欺瞞を暴露しようとスローガンを挙げた。それにたいして現在の大人世代ははっきり子供たちにたいして牙をむき出し、あまっさえその上を更なる欺瞞で塗り込めようとしている。やりたい放題の大人世代は「歯向かう根性もない腑抜けどもめ」と言うかもしれない。
いや、違うな。大人世代はオウムもホリエモンも屠った、若者市場向けアミューズメントや情報ツールも社会インフラとして整えた。後に続く世代の人格や勢力からの、本当に自分たちの地位を脅かす振る舞いを恐れたためにつくられた、そのテの牙を抜くマニュアルは(ハードウェアを含めて)ほぼ完成の域に達している。なのにこれ以上何を求めようと言うのか?前の世代への奉仕?納税者としての高能力さ?
子供たちの前に立ちはだかる壁はここまで高くて厚くて固い。そして低くて薄くて柔らかい。大人たちの子供たちにたいする接遇マニュアルの巧妙化という意味でだよ念のため。だから本気で「大人になったら何かやってやろう」とかよりも、住田の場合などと来た日にゃ普通の未来すらない。だから被災者してホームレスになった人やヤクザぐらいしか主人公と共感するキャラクターが現れない。

欠点はむしろ普通について語るラスト近く。語るのはいいが、結局普通は描けずじまいに終わる。住田が悪党殺しを求めてさまようシーンの精彩のなさは作者が普通を知らないとしか思えない。普通の人生とは意外と波瀾万丈なものなのだし、日常においてすら目を凝らしてマンウォッチングすればバランスを欠いた人格や、派手なヴィジュアルなどいくらでも目につく。おまけに茶沢の両親、その異常さを作者は喜々として描き出しており、バランスを欠いているというのも多くのレビュアーが指摘しているとおりだろう。

それでもだ。住田と茶沢が普通について語り合うシーンの後に来るのは住田が自分を裁くしかあるまいと、小生を含め観客の多くは思ったにちがいないし、そして茶沢が変わらぬイタさでそれを受け止めると…。普通のストーリーラインならばそうなる。でも、本当にそれでいいのか?と思いきや。住田は還って来るのである!これはどう見ても洗礼であり、バプテスマである。朝陽に向かって走り出す住田に「ガンバレ!」と声援を送り続ける茶沢。ここにはかつて多々あった青春ドラマのイタさや、手垢のコテコテさがない。住田の入水からの生還は禊ぎとも言えようか、様々なカタストロフィ史を経て鍛えられた伝統的宗教儀式のパワーを見せつけられる。この儀式のパワーを詳らかにした評を未だ小生は目にしていない。どなたかさらなるご教示を願う次第。
ツッコミ所は多々ある。が、3.11以後最初の青春映画にたいしては、このラストへの批判のないネガティヴな評は凡そ片手落ちである。

最後の晩餐の後、被災者ホームレスたちは住田と茶沢を残し去ってゆく。ていうか退場だよねこれ。二人には明日がない。せいぜい普通の大人になりたい希望=未来を夢見るくらいしかできない。それでもこの酷い世界と付き合っていってやると、覚悟をキメる若者に声援の一つも送れない大人たちよ、どーすんだよこれから。