テレビや映画など、映像を見る際に自分は何を期待しているだろうか?
多くは宣伝やバラエティ、ドラマなどのジャンル、映画ならネットでの前評判を参考にする諸氏も多かろう。
たとえば、とても高品位なマジックショーを見る。
その魔術は人が宙に浮いたり、瞬時に入れ替わったり、脱出したりと、とても鮮やかに観客、視聴者を幻惑してしまう。
「驚いた、とても不思議だ!」「タネが全くわからない」なる感想を抱いた。
他方で、あるドキュメンタリを見る。
スプーンを自在に曲げたり変型させてしまう超能力の持ち主が、はじめてビデオカメラの前でスプーン曲げを実演してみせる。
撮影する部屋の中には、スプーンを持った超能力者とビデオカメラだけ。
映像は数時間収録され、その間、超能力者は真剣な表情でスプーンに向き合っていた。もちろん休憩をとったり、スプーンを一旦置いて歩き回ったりもしたが、結局「すみません、出来ません」と収録時間内でのスプーン曲げ実演をあきらめてしまった。
ドキュメンタリ番組のスタッフは、後日、超能力者と二人きりになったら、彼は目の前でスプーンを曲げて見せたと番組内で語った。
この番組を見た人は「そら見ろ、超能力なんてまるでインチキさ」とうそぶくのだろうか?
同じひとは、前述のイリュージョンには喝采を送っていた。
そして超能力者がスプーン曲げに失敗するドキュメンタリには悪罵をたれる。一見一貫した振る舞いに見える。
しかし私は違う。
イリュージョンを見て、磨かれたショウ、洗練されたマジックの鮮やかさに驚く。
そして超能力者がカメラの前でスプーン曲げを失敗するさまにリアリティを感じるのだ。
矛盾するように聞こえるが、想像してほしいのは番組本編の外側だ。
実際その映像番組でイリュージョンやスプーン曲げ(失敗したが)の映像が占めた時間は放送時間の三分の一もあるまい。では本編の大半はというと、イリュージョンを盛り上げるための観客や、驚き、タネを考えあぐね、喝采する役どころのゲスト芸能人らの表情だ。舞台装置も豪華できらびやかなもの。
超能力番組なら超能力者の人となりを紹介するパートや、使用されるスプーンがいかに何の変哲もないものなのか、映像収録する準備に神経を費やした様子など、安っぽさこそあれ、全体として地味でヘヴィーなつくりの映像である。
私はこれら番組パッケージから知らず知らずのうちに番組に、映像に、映画に向き合う姿勢を求められており、そのリクエストに答えることに馴れているのだ。番組、映像、映画にたいする礼儀とも言える。
さて、『シン・ゴジラ』だ。
私はオタクである。幼少の頃から怪獣映画を楽しんで見て来た。長じるにしたがって画面にたいしてツッコむようになる。怪獣が登場する映画なら「政府は何してるんだ」「あんなデカブツありえない。バケツ一杯大のプリン作ってみろ」「生体内で核分裂やって内骨格作ってんなら新元素めっかるだろ」「熱風の息吐いて、それが光線みたくなるのが理屈」「完全生物なら遺伝子ベースからちゃんと設定しろよ」「対怪獣の防衛出動で通常戦力が無力なら米軍の出番なのね?」などなど。
前述の「礼儀」を知らない観客である。
これらにたいして(オトナである)作り手は、そんなのいちいち考えていたら怪獣作れないと考え「ガキのヘリクツ」とうっちゃられる。上記のカギ括弧内は、まずこれまでのオトナからは回答は望めない突っ込みである。
って言うか、まず相手にされない。なぜならば怪獣映画は映画会社や代理店など企画担当者から「キワモノ」と見下されてきた歴史がある。
そしてオタクが好むアニメーションや、特撮ヒーローモノなるジャンルも同様。
だが、先人のクリエイターたちは、その見下されてきたジャンルが、市場規模の拡大に伴い、社会におけるステイタスを獲得し続けてゆく歴史をつくってきたのも事実。
オタク連中にとっては知識知見を広げていくモチベーションとなり、友人との会話でも盛り上がるネタになっていった諸々が、オタクの細分化(タコツボ化とも言われる)に伴う少量多品種生産を可能にする技術進歩とともに市民権を得ていった。
東京にゴジラが現れたら政府はどう対応するのだろうか?
この問いにたいして、作者は前述のオタクとしての観点から一つ一つこたえている。
までは良いのだが、小生は『シン・ゴジラ』を見た直後、オタクの端くれとして、複雑な感覚にとらわれてしまった。
冒頭からサードギアにシフトしている物語運びの速度は登場人物の肩書テロップは読ませるつもりなどなく、セリフには専門語句が多く、観客の大半は置いてけぼりだ。ごく少数のオタクだけが、理解できる(とほくそ笑む)情報量と密度。真のリアリティとはこんなもんだろうなと思わせる説得力が在るが、このアイデアはさほど真新しいものではなく、演出の基本と言っていい。平たく言えば「やろうと思えばできる」。
例 警察ドラマでは逮捕状を「フダ」手錠を「ワッパ」と呼ばせたり、部署や管轄間の軋轢、キャリアへの忸怩を盛り込んだりする。
米国で制作されたテレビドラマ『ER』は救急救命室が舞台だが、飛び交う専門用語の連発についていける視聴者はほとんどおるまい。
しかしこれらディテールの作りこみは、物語に実在感を与える。
それらが『シン・ゴジラ』では最初から観客に理解させるつもりがないのか、とにかく疾走してゆく。これは「何だかわからないけど大変なことが起こっている」雰囲気、空気の演出に成功している例と言える。
冒頭に述べた、礼儀を求める演出はこうして加速し、作中子供が出てこないことからも、「東京にゴジラが現れたら政府はどう対応するのだろうか?」を真剣に描くツカミには成功している。
それと同時に「説明をすっとばしている」という説明に陥ってはいないか?なる疑問を持ってしまった。
複雑高度化した現代社会であり政府組織だからこそ、細部の描きこみにはこだわる。そして観客にそれらをわからせる必要はなく、「わからないから描かない」のでなく、「わからいことをそのまま描く」ことによる臨場感はよく出ている。
が、巨大生物による災害とそれに立ち向かう政府要人とエキスパートたちは描けても、ゴジラにようる破壊と自衛隊との攻防は描けても、
津波をモデルにゴジラ上陸の様子が描けても、
震災をモデルにゴジラが通った跡の瓦礫が描けても、
ゴジラ凍結作戦(ヤシオリ作戦)実戦部隊にたいし、死地に行く作業員たちに檄る矢口。扮する長谷川が、演技の参考にしたであろう3.11原発事故直後の空中放水に向かう消防隊員の上司の表情というモデルがあっても、
大きな物語がないのだ。

いや、違うな。
1954年製作の『ゴジラ』(本多猪四郎監督)は、原水爆反対なるテーマがあった。原水爆を上回る兵器オキシジェンデストロイヤーで原水爆の申し子ゴジラを葬るラストは演出の力がこもっていた。
『新世紀エヴァンゲリオン』ですら、自己と他者なるテーマがあった。
シン・ゴジラにはそれはない。いや、そのことがいけないのではない。
結局オタク的な、趣くところのディテールの拡大しかなされていないのではないか?
ゴジラ上陸時発生する津波に飲み込まれる自動車には人影がない。
ゴジラの通った跡に死者の足の一部が出てくるが、倒壊したマンションの鉄筋に突き刺さった死体(もしくはその一部)は無い。
ヤシオリ作戦において、コンクリートポンプ車がゴジラに近づく足場はどうやってつくるのか?ショベルカーらしき車両は登場するが、自走架橋は見当たらない。何より車両を運転するヒトが見えない。自衛隊の戦闘車両や戦闘ヘリの乗組員は描かれていたのに。
さらにだ。
オタクとして大変シンクロ(共感ではない)できる内容であり、エンタテインメントとして楽しめるが、反面作者の興味のあるアイテムしか登場せず、作者を上回る高次のオタクからはハテナが付きまとってしまう。思い出すに
『新世紀エヴァンゲリオン』(に限らないが)でこれでもかとオタッキーなアイテムが登場するが、たとえばネルフ本部の隊員が座っているコンソールの、スイッチ盤は結局設定すらされず仕舞いだ。
『宇宙戦艦ヤマト2199』(出渕裕監督)の、木星におけるくだりでも艦橋乗組員たちの戦闘描写でも砲術操作はそれらしい動きは胸から上のみのキャラの動きがあるのみで、スイッチやレバー類の操作すなわち手許の描写は映像として描かれない。絵コンテは樋口慎司なのに!
私はオタクである。就中映画オタクである。
レビューで散見する「後半になって面白くなくなった」のではなく、「オタクの気を惹く政府要人や自衛隊らのアイテムが(ゴジラによって破壊され)潰滅した」のだ。
だから、巨災対(巨大不明生物特設災害対策本部の略称)VSゴジラ≒政府VS米国のくだりでは、巨災対内にしか演出の精彩は感じられない。科学技術館屋上は『太陽を盗んだ男』へのオマージュだろうか?そこには宮崎駿並みの力押しや、押井守並みのウソも下敷くことなく、切迫感がない。興味の趣くモノ、事象しか描出に冴えを失うのはそもそも映画監督としての資質に関わる大問題である。
好きなものを描くのはかまわない。が、映画は興行である。といってもラブロマンスを盛り込めなどと言うつもりはない。ゴジラに蹂躙された東京の喪失感は、立川の場面ではモノレールの操車場や基地といった無機的な舞台でしか描かれない。予算の都合?ならあんなにギャラの高そうなキャスティングを見直してはどう?オトナの都合?東宝の直製作?
想像すべくもないが、仮に本作のシナリオをつくるとすると、専門用語だらけの、電話帳みたいな仕上がりが予想される。
普通はこれを、非専門の一般人たちにわかるようにはどうすれば伝わるかに脳ミソを絞る。
冒頭本作のキーマン牧五郎(肖像は岸田森でいくべきだった!)の自殺跡らしき描写があるが、その捜査関係者(刑事)と自衛隊のフロントと、政府の担当(矢口)との三方で、モノ語ると、小生がシナリオライターなら思いつく。
が、現実には本作は当たっている。
オタッキーな演出は伝わらない。そのことを恐れない。それよって表現したいことを伝える。成功しているのは間違いない。
一方、そのことは大きな物語やテーマが描かれない現代の、深味のない、物語構造すら曖昧な、ヒトのアクションやその連鎖にすら頓着しない、ゴジラや車両以外動きの乏しい、うねりのない映像物語に終始してしまった。となると…
残るのはプロモーションの役目しかなくなる。
庵野秀明監督が『風の谷のナウシカ2』をつくる噂は一定の真実味はあるのだろうが、イメージを重ね、映画物語にする仕掛けへの下準備と言うよりも、資質として欠いている部分もまたクローズアップされてしまった。
おなじオタクとしての反省点は私の中にも無視できない大きさになって在る。