更新が遅れに遅れて申し訳ありません。
やっと観れたのが長い付き合いのシリーズで、友人に「世界征服をたくらむ悪の秘密結社が出てこないと」というのがいる。
ちなみにシリーズ中彼が好きなのは『私を愛したスパイ』だ。
007と言えば、華麗なスパイアクションはもちろん、魅力的な悪役、様々なスパイ活動のためのアイテムやギミック。奇想天外なアイデア。NATOの核を盗んで西側諸国を強請る『サンダーボール作戦』なんか当時の誰が想像し得ただろうか?
そしてシリーズを通して英国のエージェントとしての矜持は外さない。『バットマン』が一時期おバカ路線へイッてしまったが、『007は二度死ぬ』の後に制作されたのが『女王陛下の007』であることや、『ムーンレイカー』の次が『ユア•アイズ•オンリー』といった具合に、007シリーズは節目毎に適度な軌道修正を経て、現在に至っている。ただ、その都度の時代性は取り入れてられいる。『ダイヤモンドは永遠に』の月面セットや『ムーンレイカー』のスペースシャトル、『ゴールデンアイ』の冷戦終結、『ダイ・アナザー・デイ』の38度線などは見逃せない。
『カジノロワイヤル』から続く本作でのジェームズ・ボンドは、ともすればジェイソン・ボーンと見まがうだろう。当然なのだ。それまでの冷徹で華麗で、わざとシェイクしたドライマティーニを嗜み、窮地に陥ってもネクタイの曲がりを直し、自虐的なジョークをこぼすスーパーエージェントのはずが。
ただし、007は空想科学モノ、サイエンスフィクションとは一線を画していたのも確かなのだ。登場する特殊装備が実現可能なものばかりなのもその現れ。(『ワールド•イズ•ノット•イナフ』の透視眼鏡は今も欲しい)
しかし、『ダイ•アナザー•デイ』では『攻殻機動隊』よろしく光学迷彩が施されたボンドカーまで登場し、準SFまで行ってしまった。
その次回作『カジノロワイヤル』のジェームズ・ボンドは傷つき、過ちを犯し、悩む荒削りな肉体派タフガイとして描かれている。
本編の短さが、時代の要請ならば、その時代性はどこから読み取れるか。『ダークナイト』の感想では書いていないが、編集に余裕がなさすぎる印象は見返しても感じる。『アラビアのロレンス』の陽炎の中から現れる王子や、砂漠の夜明けなどの、ムダに長いようでいて実は必要な長さのショットが、見当たらないのだ。
さらに本作の、誰が敵なのか判然としないつくりは、物語からも、また時代性からも、容易に想像できよう。
ストーリー面での『慰めの報酬』は、よりリアルな事件として、ボリビアの水資源を独占しようと企む悪役(シリーズ中では最も小ぶりだろう)が、ボンドと死闘を繰り広げるのだが、冒頭のMI6内の裏切り事件も含めて何が、誰が悪者なのかが判然としない。もちろん本ストーリでは織り込み済みの設定なのだろうが、前作では愛した女の裏切りからくる悲劇を受け止める若きボンドが、本作では復讐に突き進み、死体の山を築くことになる。ミスター・ホワイトが生きていることからもわかるとおり、その復讐は未だ貫徹されてはいない。
したがって、物語面でのリアルハード路線の007はここに極まった。しかしアクション面ではどうか?
『ローラボール』という作品がある。近未来の平和な世界で庶民がもつ闘争本能のはけ口として催されている殺人ゲームの物語。1975年にノーマン•ジュイソン監督でつくられた。2001年にリメイクされているが、出来不出来はともかく、アクションシーンの迫力はリメイク版の方が上。もちろん2001年版はCG多用の作品なのだから比較するのが野暮だ。
しかし、1975年版の撮影では出演を依頼した東京ボンバーズ(ローラーゲームのクラブチーム)の担当者が、撮影現場を下見した際、余りの怪我人続出に後の興行が出来なくなると依頼を断ったそうだ。そうしてできた1975年版。負傷者の山の上に出来た作品と言えなくもない。
『マッドマックス』という作品がある。クッションなどで完全防護を施したカメラを車体に固定し、フィルムを走らせて実際に車同士クラッシュさせる。理屈ではCGなしでこれ以上迫力あるカークラッシュの映像は生まれない。
そこへCGの登場は、1975年版を凌駕する迫力の『ローラーボール』を提供し、『マッドマックス』数本分のカークラッシュ映像を同程度以下の予算で、より安全につくれるようになった。
このことがもたらす帰結は、アクション映画作者の想像力が、CGによる二次元化に、追いつき追い越せのイタチごっことなり、とてもタイトな短尺の、編集に余裕のないものとなる。
『マッハ!』のようなCGなしのアクションがウリではない。肉体派アクションならば細かなカット割ではなく、かつての三船敏郎並みとは言わないまでも、カット内での動作で何が起こっているのかを、もっと見せることは出来ないか?いや、それにこそCGを使えばいいのにと思うが、そこをあえてカットをかさねタイトな編集でわかりにくくしたとも考えられる。リアルに考えればエージェントが目立つのはマズいし。
日本でアクションと言えば殺陣・チャンバラの歴史があるが、何も映っていないコマがあると言われた座頭市でも誰が誰を斬っているかがわかるシーンとして成立していた。
その、演出や殺陣をフィルムに定着させる技術(というよりワザですな)が最早失われかけているのかもしれない。もちろん、演出上あえてアンチリアルな動きを求める場合もある。小津監督の作品などはそんなんばっかだし、逆の例では手描きアニメでも、『イノセンス』の、拉致された少女をゴーストダビング装置から外すバトーの重々しい動作は、ヒトとしてのリアリティであってサイボーグのそれではない。
さらに、誰が敵なのか見えにくい息苦しさは、現実世界がそうであるように、また悪漢とわかっていても手を組まざるを得ない国家の要請に、ハードボイルドとしてどこまで肉迫できるか。簡単には答えは出せない。本作も然りだ。
ありえないウソをリアルに説得力をもたせて物語世界として構築する。そんな映画、特に007はその醍醐味を存分に味わえるはず。期待は外されるが、ちがった次元で期待以上のものを提供されたという感想になろう。いい意味の裏切りという言葉もあるのだから。
ラスト、ガンバレルに向かって撃つおなじみのショットが登場、次回からはマトモな(?)ジェームズ・ボンドになるのか?否、シリーズ中最も人間臭い007はここから少しずつ華麗さを身につけ、より大きな悪役に挑み、洗練さと冷酷さを身につけ、系譜を刻んでゆくのだろう。ただ、当局ですら裏切る場合を除いては。
とまあ、うわっつらならいくらでも書けるのだが、「スモーキン・エース」以降、ハードボイルドの行き着く先はテロリズムになりうることや、「ダークナイト」以降、CGやカットの積み重ねとタイトな編集が予感させる行き詰まり感を、いかに切り開いていけるか、リアルスパイもの娯楽活劇なるジャンルがあったとして、ジェームズ・ボンドに与えられたミッションは画面の外側で膨大に広がっている。
そういえばもう一本観た。「ポチの告白」だ。
野村浩伸扮する山崎がテロリスト化する、「ポチの告白」の続編を期待してしまう。
やっと観れたのが長い付き合いのシリーズで、友人に「世界征服をたくらむ悪の秘密結社が出てこないと」というのがいる。
ちなみにシリーズ中彼が好きなのは『私を愛したスパイ』だ。
007と言えば、華麗なスパイアクションはもちろん、魅力的な悪役、様々なスパイ活動のためのアイテムやギミック。奇想天外なアイデア。NATOの核を盗んで西側諸国を強請る『サンダーボール作戦』なんか当時の誰が想像し得ただろうか?
そしてシリーズを通して英国のエージェントとしての矜持は外さない。『バットマン』が一時期おバカ路線へイッてしまったが、『007は二度死ぬ』の後に制作されたのが『女王陛下の007』であることや、『ムーンレイカー』の次が『ユア•アイズ•オンリー』といった具合に、007シリーズは節目毎に適度な軌道修正を経て、現在に至っている。ただ、その都度の時代性は取り入れてられいる。『ダイヤモンドは永遠に』の月面セットや『ムーンレイカー』のスペースシャトル、『ゴールデンアイ』の冷戦終結、『ダイ・アナザー・デイ』の38度線などは見逃せない。
『カジノロワイヤル』から続く本作でのジェームズ・ボンドは、ともすればジェイソン・ボーンと見まがうだろう。当然なのだ。それまでの冷徹で華麗で、わざとシェイクしたドライマティーニを嗜み、窮地に陥ってもネクタイの曲がりを直し、自虐的なジョークをこぼすスーパーエージェントのはずが。
ただし、007は空想科学モノ、サイエンスフィクションとは一線を画していたのも確かなのだ。登場する特殊装備が実現可能なものばかりなのもその現れ。(『ワールド•イズ•ノット•イナフ』の透視眼鏡は今も欲しい)
しかし、『ダイ•アナザー•デイ』では『攻殻機動隊』よろしく光学迷彩が施されたボンドカーまで登場し、準SFまで行ってしまった。
その次回作『カジノロワイヤル』のジェームズ・ボンドは傷つき、過ちを犯し、悩む荒削りな肉体派タフガイとして描かれている。
本編の短さが、時代の要請ならば、その時代性はどこから読み取れるか。『ダークナイト』の感想では書いていないが、編集に余裕がなさすぎる印象は見返しても感じる。『アラビアのロレンス』の陽炎の中から現れる王子や、砂漠の夜明けなどの、ムダに長いようでいて実は必要な長さのショットが、見当たらないのだ。
さらに本作の、誰が敵なのか判然としないつくりは、物語からも、また時代性からも、容易に想像できよう。
ストーリー面での『慰めの報酬』は、よりリアルな事件として、ボリビアの水資源を独占しようと企む悪役(シリーズ中では最も小ぶりだろう)が、ボンドと死闘を繰り広げるのだが、冒頭のMI6内の裏切り事件も含めて何が、誰が悪者なのかが判然としない。もちろん本ストーリでは織り込み済みの設定なのだろうが、前作では愛した女の裏切りからくる悲劇を受け止める若きボンドが、本作では復讐に突き進み、死体の山を築くことになる。ミスター・ホワイトが生きていることからもわかるとおり、その復讐は未だ貫徹されてはいない。
したがって、物語面でのリアルハード路線の007はここに極まった。しかしアクション面ではどうか?
『ローラボール』という作品がある。近未来の平和な世界で庶民がもつ闘争本能のはけ口として催されている殺人ゲームの物語。1975年にノーマン•ジュイソン監督でつくられた。2001年にリメイクされているが、出来不出来はともかく、アクションシーンの迫力はリメイク版の方が上。もちろん2001年版はCG多用の作品なのだから比較するのが野暮だ。
しかし、1975年版の撮影では出演を依頼した東京ボンバーズ(ローラーゲームのクラブチーム)の担当者が、撮影現場を下見した際、余りの怪我人続出に後の興行が出来なくなると依頼を断ったそうだ。そうしてできた1975年版。負傷者の山の上に出来た作品と言えなくもない。
『マッドマックス』という作品がある。クッションなどで完全防護を施したカメラを車体に固定し、フィルムを走らせて実際に車同士クラッシュさせる。理屈ではCGなしでこれ以上迫力あるカークラッシュの映像は生まれない。
そこへCGの登場は、1975年版を凌駕する迫力の『ローラーボール』を提供し、『マッドマックス』数本分のカークラッシュ映像を同程度以下の予算で、より安全につくれるようになった。
このことがもたらす帰結は、アクション映画作者の想像力が、CGによる二次元化に、追いつき追い越せのイタチごっことなり、とてもタイトな短尺の、編集に余裕のないものとなる。
『マッハ!』のようなCGなしのアクションがウリではない。肉体派アクションならば細かなカット割ではなく、かつての三船敏郎並みとは言わないまでも、カット内での動作で何が起こっているのかを、もっと見せることは出来ないか?いや、それにこそCGを使えばいいのにと思うが、そこをあえてカットをかさねタイトな編集でわかりにくくしたとも考えられる。リアルに考えればエージェントが目立つのはマズいし。
日本でアクションと言えば殺陣・チャンバラの歴史があるが、何も映っていないコマがあると言われた座頭市でも誰が誰を斬っているかがわかるシーンとして成立していた。
その、演出や殺陣をフィルムに定着させる技術(というよりワザですな)が最早失われかけているのかもしれない。もちろん、演出上あえてアンチリアルな動きを求める場合もある。小津監督の作品などはそんなんばっかだし、逆の例では手描きアニメでも、『イノセンス』の、拉致された少女をゴーストダビング装置から外すバトーの重々しい動作は、ヒトとしてのリアリティであってサイボーグのそれではない。
さらに、誰が敵なのか見えにくい息苦しさは、現実世界がそうであるように、また悪漢とわかっていても手を組まざるを得ない国家の要請に、ハードボイルドとしてどこまで肉迫できるか。簡単には答えは出せない。本作も然りだ。
ありえないウソをリアルに説得力をもたせて物語世界として構築する。そんな映画、特に007はその醍醐味を存分に味わえるはず。期待は外されるが、ちがった次元で期待以上のものを提供されたという感想になろう。いい意味の裏切りという言葉もあるのだから。
ラスト、ガンバレルに向かって撃つおなじみのショットが登場、次回からはマトモな(?)ジェームズ・ボンドになるのか?否、シリーズ中最も人間臭い007はここから少しずつ華麗さを身につけ、より大きな悪役に挑み、洗練さと冷酷さを身につけ、系譜を刻んでゆくのだろう。ただ、当局ですら裏切る場合を除いては。
とまあ、うわっつらならいくらでも書けるのだが、「スモーキン・エース」以降、ハードボイルドの行き着く先はテロリズムになりうることや、「ダークナイト」以降、CGやカットの積み重ねとタイトな編集が予感させる行き詰まり感を、いかに切り開いていけるか、リアルスパイもの娯楽活劇なるジャンルがあったとして、ジェームズ・ボンドに与えられたミッションは画面の外側で膨大に広がっている。
そういえばもう一本観た。「ポチの告白」だ。
野村浩伸扮する山崎がテロリスト化する、「ポチの告白」の続編を期待してしまう。