augustfirstさんがお休みのため、今回は私、ハルカが代打です。
子供の頃、シドニー・ルメット監督の『十二人の怒れる男』(1957年)をみて、民主主義の理想を実現しようとする意志に感動したものです。時がたって、折にふれ思い出すたびに、ルメット版への疑問符が生じ、重なっていきます。生意気盛りにもなれば、いっぱしにヒネた文脈や修辞を覚えた気になって、愚かな優越感を得たいためか「そんなにウマク行くわけないだろ。アタイなら8番以外は陪審員7番と12番ばかりで10分足らずで評決不一致にして、あげくの果てに無罪!にして被告が放免されたその足でダチとつるんでくだらない犯罪に巻き込まれておっ死ぬところでエンドマーク。長くて一時間10分、それがレアリスモってもんさ」と吹いたことでしょう。もちろん刹那的で未熟な考えです。
『12人の優しい日本人』(1991年)はキャラクターの取り回しに長けた作者が上手にまとめたね、で終わっていましたね。(この脚本書いた人の作品はこれしか見ていないのです。ヤバイなあ(^_^;)。
1997年のアメリカでのリメイク版も見ましたよ。もちろん現代だから様々な要素がからみこんできます。脚本が一緒だけど。
そして、ニキータ・ミハルコフ監督による本作。
それから私はさらに年をとり、それなりに社会や歴史の知識も増え、礼儀や分別を弁える大人になったつもりなのですが、この『12人の怒れる男』を見て驚いたのは、作品の持つ一種の「なりふりかまわなさ」でした。
第二次大戦が欧州に落とした影は、私やaugustfirst氏が知っているよりも、はるかに深く長い影を落としていて、ちっとやそっとではぬぐい去れないし、削り取ろうにも転移が進んだ末期ガン状態だと、EUのとある都市在住の友人は言っていました。同じことが冷戦終結、ユーゴ紛争、ソ連崩壊、9.11以降と、様々な要素が重なってくる。レジームチェンジやパラダイムシフトへの立ち回り、熱狂と嫉妬、「理想」なぞはくるくる変われば人心も荒廃する。そんななかで出てきた、陪審員各々の生い立ちや事情が、物語にうまくはめこまれています。
回想やインサートカットなしの、モノローグなのに実際に取材したんじゃないかと思われるくらいの迫力あるエピソードが重ねられます。知らない役者さんばかりだけど、皆ひとかどの方ばかりなんだろうなあと思う。感心なことにそれらはオリジナルストーリーを崩していません。
そこまでなら、たいへんよくできましたで終わるはずが、評決に達してからのほうが大問題だったというオチが待っていたのです。
この大問題は、明らかに法の外、裁判所や当局の外、裁かれない社会悪であり、当たり前のように弱い者へとしわ寄せは行って、当たり前のように私の周辺にも散在しているのでしょう。でも本作にでてくる、法の外であり評決案件の外で起こっている不正に対しては12人のうちかなりの数の陪審が責任を持とうとする。知ってしまったからにはと懊悩する。実はこの、全員が悩む場面こそがオチと言ってもいいのかもしれません。いや何しろあのプーチンが絶賛したと作品だと聞いています。東欧の事情は切羽詰っているのでしょう。リアリティをもってこの作品を受け入れられる位に。そして、多数決。

法の外とは?例を挙げましょう。
フライデー襲撃事件をご存知でしょうか?1989年、人気テレビタレントであるビートたけしの関係者に強引な取材を行った写真週刊誌フライデー編集部へ、激昂したたけしが軍団を連れて殴り込み、傷害で逮捕、起訴された事件です。
直後、有識者からは「暴力はいけない」だの「1人で行くべきだったの」様々に言われたものです。でも、想像するに、数名が詰めている編集部へ酔った勢いで1人で行って押し問答になり、手が出ても相手は大勢、取り押さえられてパチリと撮られてフライデーされるか、仲間と殴り込んで血を見る程度に一暴れを演じ、堂々と世間の指弾と公の裁判を受けるか。
世間の平和な常識では前者なのでしょう。しかし、タレント・芸能人生命を永らえるという観点ではどちらが正しい選択だったか、答えは出ています。
法律も含めた世間の常識の外、じつは世界はその方が広いんです。極端な例になっちゃったけど。

で、最後まで見たのですが、ちょっと違った角度から話しを続けます。というのは、
過去、本ブログで投稿子のどなたかがチャップリンの「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングで見れば喜劇だ」との謂いを示されていたことを思い出したからです。
この言葉、実は私嫌いです。礼節を感じないからです。
私は関西出身で、関西人のツッコミ常套句に「誰も止める奴おらんかったんかい?」というのがあります。引いて見れば、バカバカしい結果を招く以上にあまりにもイタいので真剣に見る(もしくは検討する)意義すらない。そんなことがらにたいするあきれ文句なのですが、まあ、実例には事欠きませんね。
笑い話にして、常識や固定観念をほんの少しつまづかせる目的ならばそれもまたよしとしましょう。現れては消えてゆく笑いの自己目的化はテレビで十分。視聴者の忘却力におんぶにだっこでいい。
じゃあ相対化という、笑い話のもうひとつの効用についてはどうでしょうか?
ロングで見た喜劇(人生)の方が、実は忘却しやすいのが日本人なのかもしれません。ロングで見た喜劇がアップで見た悲劇に接続される回路を学ぶ場は学校なのですが、先日テレビのニュース番組で、日本とアメリカが戦争やったことを知らない、多分ハイティーンの女の子がでていた。学ぶ主体がこれではねえ。実際最近の私は周囲に対して「前に言ったじゃんそれ」を諦めのあまり言わなくなった。
翻って実際には、チェチェンでは、グルジアでは…その人に、その時に、その現場で、どのような悲劇があったのかは想像するべくもありません。歴史家という職業があるくらいなのですから上から目線を全否定するつもりもない。ただ、私は眼前にある悲劇に対してチャップリンのような視点を先走らせるのは不遜だと思う以上、一緒に悩み、苦しみ、泣く、弱虫でいる方をとろうと思います。中島みゆき『ファイト!』の女の子のように。

そんな、ルメット版の先の、いろんな問題に侵されて悪くなっているよのなかでも、なんとか一緒に悩んでいこうとする意志を感じさせる一編でした!

あ、言い忘れていた。演出はね、スパイスを効かせすぎなところが多いと思いましたよ。

augustfirstさんには「わかりにくい文章だ、何とかしろ!」と時折こづいてる私、ハルカからでした!